メゾンの成功
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/05 07:04 UTC 版)
「シャルル・フレデリック・ウォルト」の記事における「メゾンの成功」の解説
彼はすぐさま成功を手にした。1860年にパウリーネ・フォン・メッテルニヒのためにウォルトがデザインしたボール・ドレスが、彼女の親友であるウジェニー皇后の目に留まり、皇后はすぐさまそのドレスの作者を聞き出して、翌日にウォルトと会う約束をとりつけた。 ウォルトは、ドレスを製作する上での新しい方法を提案した。それは、数多くの生地(彼が以前に働いていたGagelin社のものを少なからず含んでいた)と、卓越した洋裁の技術の両方を一度に売り出すことである。 最初の10年の内にウォルトのデザインは即座に認められ、多くの注文を受けた。そして、1870年代までに幅広い読者をもつ女性誌に登場することでさらなる知名度を獲得した。 なお、実際のところはウォルトのデザインの影響は直接に波及したのではなく、ウジェニー皇后の服選びを追ったファッションコラムが影響力のある雑誌(例えば『Godey's Lady's Book』)に掲載されるという、いくらか間接的な方法を介してであった。 ウォルトはまた、顧客と洋服店の関係の大胆な変革を行った。それ以前の時代においてドレス作家は、常に女性だけで、顧客の家を訪ねて一人ひとりと面談した。それが、ウォルトの時代からは、顧客の方がRue de la Paix にあった店のサロンを訪れるのが普通になり(もっともウジェニー皇后の様な例外ももちろんあったが)、そこで注文をしたり、時には社交場としての機能まで果たされた。 ウォルトの経営戦略は他にも革新的であった。最初に生きたマネキン、今風に言えばモデル、に自社のガウンを着せて顧客に披露した、いわゆるファッションショーの手法を最初に行ったのも彼である。 初期にあたる1850年代、モデルはウォルトの妻が務めた。そのため彼女を「世界最初のファッションモデル」と評する批評家もいる。(Lucy Bannerman) ウォルトが自身のファッションハウスを開業した時、その従業員は全部で50人ほどであった。それが、成功と共にどんどん増えて1200人にも達した。 そこでの仕事には細部に対するぬかりのない注意力と高い技術、熟練が求められた。また、ウォルトの店ではその服が確実に着た人の体に合うようにするためである。裁縫師には別のアトリエがあてがわれていた。例えば、袖を作る、服の端を縫う、スカートを縫う、といった形にそれぞれにである。殆どの服は手で縫われていたが、一方で、ウォルトの時代に登場したばかりの初期のミシンが重要な縫製箇所で使用されることもあった。
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