ミハイル・フラトコフ
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ミハイル・フラトコフ
Михаил Фрадков
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フラトコフの写真(2016年)
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生年月日 | 1950年9月1日(75歳) |
出生地 | ![]() ![]() クイビシェフ州クルーモチ村 |
出身校 | モスクワ工作機械大学 |
所属政党 | ![]() (? - 1991年) 祖国・全ロシア (1998年 - 2002年) ![]() (2004年 - ) |
称号 | 予備役大佐 名誉勲章 経済学博士 |
配偶者 | エレーナ・フラトコワ |
在任期間 | 2007年10月6日 - 2016年10月5日 |
大統領 | ウラジーミル・プーチン ドミートリー・メドヴェージェフ ウラジーミル・プーチン |
在任期間 | 2004年3月11日 - 2007年10月15日 |
最高国家会議議長 | アレクサンドル・ルカシェンコ |
内閣 | 第1次フラトコフ内閣 第2次フラトコフ内閣 |
在任期間 | 2004年3月5日 - 2007年9月14日 |
大統領 | ウラジーミル・プーチン |
在任期間 | 2001年3月28日 - 2003年3月11日 |
大統領 | ウラジーミル・プーチン |
内閣 | ステパーシン内閣 |
在任期間 | 1999年5月25日 - 2000年5月17日 |
大統領 | ボリス・エリツィン ウラジーミル・プーチン |
軍歴 | |
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所属組織 | ![]() ![]() |
軍歴 | 2001年 - 2003年 (FSNP) 2007年 - 2016年 (SVR) |
最終階級 | ![]() 第1級ロシア連邦現役国務参事官 [注釈 1] |
指揮 | ![]() ![]() |
ミハイール・エフィーモヴィチ・フラトコーフ(ロシア語: Михаи́л Ефи́мович Фрадко́в、ラテン文字転写の例:Mikhaíl (Y)efímovich Fradkóv、1950年9月1日 - )は、ロシアの政治家。ウラジーミル・プーチン政権で第7代ロシア連邦首相、第4代ロシア対外情報庁長官を務めた。
来歴
生い立ち
1950年9月1日にソビエト連邦のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のクイビシェフ州(現在のサマラ州)クルーモチ村にて、ユダヤ系の父のエフィム・フラトコフとロシア人の母の間に誕生する[1][2]。
ソ連時代の経歴
1972年にモスクワ工作機械大学を優秀な成績で卒業し、機械工学の学位を取得する。卒業後、1973年に対外経済関係省に入省。インドのソビエト連邦大使館の経済部門で勤務し、1981年には対外貿易アカデミーを修了した。1975年から1984年にかけてソビエト連邦国家経済関係委員会の対外貿易公団「チャジュプロムエクスポルト」に勤務。続いて1984年に国家経済関係委員会納入総局副総局長に就任。その後1988年にソビエト連邦対外経済関係省対外経済取引調整・規制総局第一副総局長に就任した。
ソ連崩壊後の経歴

1991年にはジュネーヴに派遣され、GATTのロシア代表となった。ソビエト連邦崩壊後の1992年10月に対外経済関係次官に昇進し、1年後の1993年10月には第一次官に任命された。
1997年にボリス・エリツィン大統領によって対外経済関係・通商相に任命され、1年後の内閣総辞職まで閣僚を務めた。
1998年5月、保険会社「インゴスストラフ」の取締役会議長に選出され、1999年2月から社長に就任。
1999年にはセルゲイ・ステパーシン内閣で再び通商相に起用される。2000年5月に第2代ロシア連邦大統領となったウラジーミル・プーチンの時代にロシア連邦安全保障会議第一副書記に就任し、経済安全保障を担当した。その後ロシア連邦税務警察庁長官に任命されが、2003年3月11日に同職は廃止され、フラトコフはロシアの欧州連合(EU)担当特使に派遣される。この立場で、同年5月31日にストリェリナで開催されたロシア・EU首脳会議に出席した。6月には、EUとの関係発展に関するロシア大統領特別代表にも任命された。
首相就任

2004年3月5日にウラジーミル・プーチン大統領によって、ミハイル・カシヤノフの後任として連邦政府議長(首相)に任命され、第1次・第2次ミハイル・フラトコフ内閣を組閣。国家院は圧倒的多数でフラトコフの首相就任に同意した。与党統一ロシアとロシア自由民主党、「祖国」は賛成の意を示し、ロシア連邦共産党は反対の意を示した[3]。議会外政党からは、「右派連合」がフラトコフを支持し、ロシアのEU駐在全権代表としての活動による国際的な権威を評価した[4]。
元経済官僚のフラトコフは対外貿易問題を専門とし、フラトコフ内閣のもとではロシア経済の好調維持と国際経済への参加推進が期待された。一方でプーチン政権を支える旧ソ連国家保安委員会(KGB)人脈の外にあり、政治的にも比較的無名なフラトコフが2004年ロシア連邦大統領選挙を2週間前に控えた時期に首相に抜擢されたことは驚きをもって受け取られ、ソ連時代にKGBと繋がりがあったとする説も流れた。彼はプーチンの側近とは見なされておらず、カーネギー・モスクワセンターのリリア・シェフツォワなど一部の評論家は、彼の「政治的対立軸以内部外者」という立場が首相任命に重要な要素となった可能性を指摘している。フラトコフが仕えた元首相のセルゲイ・ステパーシンは、 フラトコフを「いかなる政治的な派閥やグループからも完全に独立している」と評している。またプーチンもフラトコフを経験豊富なプロフェッショナルで誠実な人物として称賛した。彼はプーチンから任命された「技術的な首相」であり、独自の政策は実施していなかった[5]。2005年11月14日、プーチンは腹心のドミートリー・メドヴェージェフとセルゲイ・イワノフを第一副首相に任命し、フラトコフの首相としての権限の削減を図った。
訪日
2007年2月27日から2月28日にかけてヴィクトル・フリステンコ産業エネルギー相ら閣僚・企業家などを伴って日本を訪問。第2回日露投資フォーラムに出席した他、安倍晋三・麻生太郎・尾身幸次・甘利明らと会談した。領土問題解決の重要性やサハリン沖の海底油田開発プロジェクトの円滑な実施を確認した。
2004年5月12日、プーチンが大統領選挙で勝利し、5月7日に再任したことを受け、フラトコフも首相の地位を保持した。しかし同年9月12日に、フラトコフはプーチン大統領に辞意を表明。プーチンとの会談でフラトコフは首相を辞任する理由を以下のように答えた。
— 今日の政治情勢を踏まえ、人事を含む、あらゆる決定を自由に選択していただきたい。そして今後の大統領の政治決定や権力構造の調整において、何らの制約も受けないよう、私が首相の職を辞する意向を示すことが適切であると考えます[6]。
プーチンは辞任を受け入れ、フラトコフの業績に感謝した。プーチンは政府の成果として、安定した経済成長、インフレ率の低下、実質所得の増加、大規模な社会プロジェクトの実行などを挙げた[7]。プーチンはフラトコフに対し、国家院が新首相を承認するまで、首相代行として職務を継続するよう要請した[8][9]。プーチンはフラトコフの後任として、サンクト派のヴィクトル・ズプコフを容認した[10][11]。
対外情報庁長官の指名・就任
同年10月6日にプーチンはフラトコフを独立国家共同体(CIS)書記に就任したセルゲイ・レベジェフの後任として、ロシア対外情報庁(SVR)長官に指名する[12]。フラトコフの対外情報庁長官任命は事実上の左遷という見方と、外交官の佐藤優のように、かつてフラトコフをポスト・プーチンの1番手だという説を唱えていたことがあり、左遷では無く栄転であると観測する2つの見方がある。
その後
2016年9月22日にプーチンは、SVR長官をフラトコフからセルゲイ・ナルイシキン下院議長に交代させ、フラトコフにはロシア鉄道取締役会議長(会長)に就任させるつもりであったが、このことは実行されないまま同年10月5日にSVR長官と安全保障会議メンバーを解任された[13][14]。11月2日付けのロシア連邦大統領令により、2017年1月4日から連邦国家科学予算機関「ロシア戦略研究研究所」所長に就任した[15]。またフラトコフはロシア対空防衛システム製造企業「アルマズ=アンテイ」社の代表取締役を打診された[16]。
制裁
2014年7月25日、「分離主義的な行動と政策を積極的に支持した」として、EU全加盟国の制裁リストに追加された[17]。
2018年4月6日、プーチンに近いロシアの17人の政府高官と7人の実業家とともに、アメリカの制裁対リストに追加された[18][19][20]。
その後、ロシアのウクライナ侵攻に関与したとして、イギリス、カナダ、オーストラリア、ウクライナ、スイスの制裁リストにも追加された[21][22]。
人物

英語とスペイン語を話し、モスクワのサッカークラブ「スパルタク」のファンである。
2011年時点のフラトコフの公式収入は520万ルーブルであったが、その前の年の収入は710万ルーブルであった[23]。しかし2014年には2210万ルーブルに上がり、1003ヘクタールの土地、301平方メートルの別荘、587平方メートルのアパート、2台の駐車スペースを所有している[24][25]。
祖国貢献勲章やアレクサンドル・ネフスキー勲章などの勲章を保持しており、外務省と対外諜報庁の関係強化に貢献したとして、「ロシア対外諜報庁名誉職員」の称号も授与されている[26]。なお予備役大佐の軍事階級も保持している。
家族
妻のエレナは経済学の学位を持ち、以前は国際貿易センターで働いていたが、現在は主婦である。2人の息子がおり、長男のピョートル・フラトコフ(1978年生まれ)は、プロムスヴァジバンクの会長であり、次男のパーヴェル・フラトコフ(1981年生まれ)は、ロシア連邦保安庁アカデミーを卒業し、2005年にはロシア外務省欧州協力局に三等書記官として採用され、2021年より、ロシア大統領府事務次長を務める。2024年6月17日より、ロシア連邦国防次官を務める。最終階級は少将である。
脚注
- ^ ru:Фрадков, Ефим Борисович#Семья, Фрадко́вを参照
- ^ C. Lev Krichevsky, "Russian Jew named prime minister brings out Jewish pride — and anxiety" Archived 2007年2月16日, at the Wayback Machine., JTA, March 2, 2004.
- ^ “Госдума проголосовала за назначение Михаила Фрадкова председателем правительства России”. Первый канал (2004年3月5日). 2023年4月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。 Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
- ^ “Заявление Президиума Федерального политсовета Политической партии «СОЮЗ ПРАВЫХ СИЛ»”. Архив сайта «Союза правых сил» (2004年3月1日). 2004年7月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月30日閲覧。
- ^ Ясин Е. Г. Назначение Зубкова не имеет ничего общего с демократией アーカイブ 2007年10月28日 - ウェイバックマシン // Московские новости, № 36, 14.09.2007
- ^ Запись телеэфира Первого канала, 12.09.2007
- ^ Начало рабочей встречи с Председателем Правительства Михаилом Фрадковым アーカイブ 2007年10月11日 - ウェイバックマシン, 12.09.2007
- ^ C. J. Chivers, "Putin Shuffles Government, Posing Mystery", The New York Times, September 13, 2007.
- ^ Путин отправил правительство в отставку アーカイブ 2007年9月15日 - ウェイバックマシン, 12.09.2007
- ^ Nabi Abdullaev, "Fradkov Quits, Replacement a Surprise", The Moscow Times, Issue 3742, September 13, 2007, Page 1.
- ^ Michael Binyon, "Viktor Zubkov confirmed as Russian PM", The Times (UK), September 14, 2007.
- ^ "Russian Foreign Intelligence"
- ^ http://www.kremlin.ru/events/president/news/52949
- ^ Официальное опубликование правовых актов в электронном виде
- ^ http://www.kremlin.ru/events/president/news/53190
- ^ Фрадков возглавит совет директоров «Алмаз-Антей» и РИСИ — Российская газета
- ^ “COUNCIL IMPLEMENTING REGULATION (EU) 2020/398”. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
- ^ “Ukraine-/Russia-related Designations and Identification Update; Syria Designations; Kingpin Act Designations; Issuance of Ukraine-/Russia-related General Licenses 12 and 13; Publication of New FAQs and Updated FAQ”. www.treasury.gov. 2018年4月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年4月9日閲覧。
- ^ “США расширили санкционный список в отношении России”. РИА Новости (2018年4月6日). 2018年4月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年4月6日閲覧。
- ^ “Наказание за «скверные поступки». «Кремлёвский список» превратился из «телефонного справочника» в реальный инструмент воздействия на российскую финансовую элиту”. 2018年4月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年4月7日閲覧。
- ^ “ФРАДКОВ Михаил Ефимович - биография, досье, активы”. Война и санкции. 2023年1月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月13日閲覧。
- ^ “PEP: Фрадков Михаил Ефимович, Российский институт стратегических исследований, директор”. 2023年1月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月13日閲覧。
- ^ “Руководители российских спецслужб отчитались о доходах”. 2012年5月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年5月1日閲覧。
- ^ “Доходы главы СВР за год выросли более чем в три раза”. РБК (2015年4月30日). 2022年6月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月19日閲覧。
- ^ “Доход главы СВР Михаила Фрадкова увеличился за год в три раза”. РИА Новости (2015年4月30日). 2022年6月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月19日閲覧。
- ^ “Премьером России стал почетный сотрудник контрразведки”. 2007年12月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年11月24日閲覧。
外部リンク
公職 | ||
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