ミニシアターブーム
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1992年には松竹直営から離れ、独立系映画館として独自路線を歩み始める。転身直後にはトッド・ヘインズ監督のデビュー作『ポイズン』、1993年にはクエンティン・タランティーノ監督のデビュー作『レザボア・ドッグス』を上映。アート性に加えて娯楽性やファッション性、色気を内包した作品を選択した。1993年頃には上階の渋谷ピカデリーが閉館してJリーグ公式スポーツバーとなったが、1996年にはJリーグブームが一段落したため、シネマライズの2スクリーン目に改装された。このスクリーンの初上映作品にはエミール・クストリッツァ監督の『アンダーグラウンド』が選ばれている。 1990年代にシネマライズで特に大ヒットを記録した単館系作品には、『トレインスポッティング』(1996年、ダニー・ボイル監督)や『ムトゥ 踊るマハラジャ』(1995年、K・S・ラヴィクマール監督)や『アメリ』(2001年、ジャン=ピエール・ジュネ監督)がある。1996年の『トレインスポッティング』は33週にわたって公開され、2億3000万円-2億4000万円の興行収入を記録。シネマライズの興行収入記録を塗り替えた作品となった。1998年の『ムトゥ 踊るマハラジャ』は23週にわたって公開され、2億1000万円の興行収入を記録。『ムトゥ 踊るマハラジャ』は1998年6月13日から他館に先駆けて上映され、マサラ映画が日本中でブームを巻き起こすきっかけとなった。 1999年4月には道玄坂にシブヤ・シネマ・ソサエティが開館し、7月には渋谷公園通り近くにシネクイントが開館。渋谷はミニシアター8館計12スクリーンがひしめき合う激戦区となり、作品確保競争が激しくなった。2000年頃からは都内にシネマコンプレックス(シネコン)が浸透して観客の動向が変化したことで、都内のミニシアターに洋画を買い控える傾向が生じた。1990年代後半に上映された作品には『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(1999年、ヴィム・ヴェンダース監督)などもある。 2001年の『アメリ』は36週にわたって公開され、2億8000万円の興行収入を記録。『トレインスポッティング』を上回り、閉館に至るまでシネマライズの最高興行収入記録となった。『アメリ』は2001年11月から2002年7月19日までの異例のロングランとなり、日本中にミニシアターブームを起こしている。『アメリ』の上映の際には配給会社・広告会社と協同し、主人公アメリのかわいらしい部屋や小物を強調して集客につなげた。『アメリ』が大ヒットする一方で、向かいにあるシネクイントでは『メメント』が大ヒットしており、アート志向のシネマライズ、エンタテインメント志向のシネクイントというように特徴が分かれていた。 シネマライズの成功によって、渋谷の他の映画館も新しさや先鋭さを追うようになったとされる。『ムトゥ 踊るマハラジャ』と『アメリ』の大ヒットで、ミニシアター文化とシネマライズの知名度が再び向上したとされる。2002年8月には、全編で計8時間という現代美術作家マシュー・バーニーを特集して連続上映した。
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