ミシンの発明と経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/14 10:25 UTC 版)
「エリアス・ハウ」の記事における「ミシンの発明と経歴」の解説
一般に信じられているのとは異なり、ハウはミシンのアイデアを最初に思いついた人物ではない。多くの人々がそれ以前にそのような機械のアイデアを考案しており、中には1790年に発明した者もいるし、特許を取り実動する機械を生産した者もいて、80台以上生産した例もある。しかしハウの設計はそれまでのものより大幅に改良されており、1846年9月10日にアメリカ合衆国で二重縫い(英語版)(本縫い、ミシン縫い)設計のミシンの特許(アメリカ合衆国特許第4,750号)を取得した。そのミシンには現代のミシンとも共通する3つの基本的特徴を備えていた。 先端に穴のある針を使用している。 布の下にボビンがあって、二重縫いを可能にしている。 自動的に布を送る機構がある。 針の先端に糸を通す穴を設けるというアイデアをどうして思いついたのかという逸話は、母方の家系の記録にある。ある日、ハウは野蛮な見知らぬ国の王のためにミシンを作らされる夢を見た。王は彼に24時間の猶予を与え、それまでにミシンを作って縫い終わらないと処刑されるのである。ハウはがんばってミシンを作ろうとしたが完成できず、連行される。そのとき、兵士たちが持っている槍の穂先に穴が空いていた。これだ、と気付いたとき目が覚めたという。朝の4時だった。彼は急いで先端に穴のある針を作り、それ以降は順調に設計が進んだという。 特許は取得したが、ハウはアメリカで出資者を見つけられず、兄アマサ・ビーミス・ハウが1846年10月にイングランドに行き出資者を捜した。アマサはロンドンでコルセットや傘や鞄を製造する工場を経営するウィリアム・トーマスに250ポンドでミシン1号機を売った。1848年、ハウとその家族はロンドンでアマサに合流したがトーマスとの仕事はうまくいかず、ハウの妻が病気になったため、ハウはほぼ無一文でアメリカに戻った。 その後もミシンを売る努力を続けていると、他の起業家がミシンの製造を開始した。ウォルター・ハントの協力を得たアイザック・メリット・シンガーがハウのミシンの複製を完成させ、二重縫い方式のミシンを販売しはじめたのである。ハウは特許権を守るために訴えを起こし、1849年から1854年まで法廷で争った。ハウはこの裁判に勝ち、シンガーや他のミシン会社から高額なロイヤルティーを得た。 そうして得た金銭の大部分を南北戦争中の北軍に装備品として寄付している。1862年8月14日から1865年7月19日には兵士として戦った。
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