マントヴァ、ヴェローナ、ローマでの活動
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「ピサネロ」の記事における「マントヴァ、ヴェローナ、ローマでの活動」の解説
1422年、彼はゴンザーガ家の統治するマントヴァへ赴いた。当時の当主は幼少のルドヴィコ・ゴンザーガ(マントヴァ侯ジャンフランチェスコ・ゴンザーガの息子)であった。ピサネロは1440年代までゴンザーガ家のために仕事をしている。 ピサネロは1424年、再びヴェローナに滞在した。研究者の指摘によれば、この同じ年、ピサネロはパヴィアにて狩猟、釣り、馬上槍試合の場面のフレスコを描いたとされている。これらはミラノ公フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの注文によるものだが、今日では跡形もなく消失している。 1424年から1426年の間、彼は再びマントヴァのゴンザーガ家に戻り、現存する代表作の一つであるフレスコの『受胎告知』(ヴェローナ、サン・フェルモ・マッジョーレ聖堂)を描いた。この作品は同聖堂にあるナンニ・ディ・バルトロ(フィレンツェの彫刻家)の作になるニッコロ・ディ・ブレンゾーニのモニュメントの上方を荘厳するために描かれた。 師ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノは1427年8月から10月の間にローマで死去したが、その時、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂のフレスコの仕事は未完成だった。ピサネロはこれらのフレスコを1431年から1432年にかけて完成させた。これらのフレスコは17世紀にフランチェスコ・ボッロミーニが大聖堂を修復した際に失われた。ベルリン美術館の版画素描コレクションにはボッロミーニがこれらのフレスコを写した、淡い色のスケッチが残されている。ピサネロはローマにいる間、ルネサンスの古典的様式にますます影響されるようになった。 画家として名を成したピサネロは、他のイタリアの都市にも旅し、多くの宮廷に紹介された。フィレンツェにもしばらくの間滞在したようで、この時期に『ルクセンブルクのシギスムントの肖像』(ウィーン、美術史美術館蔵、真作とすることには異説もあり)、『男の肖像』(ジェノヴァ、パラッツォ・ロッソ蔵)の2つの現存する重要な肖像画を描いた。 1433年から1438年には再びヴェローナに滞在。この時期のフレスコ作品として『聖ゲオルギウスと王女』(1436 - 1438年、ヴェローナ、サンタナスタジア聖堂ペッレグリーニ礼拝堂)がある。この作品は19世紀末に壁の雨漏りによって大幅に損傷を受けており修復が必要である。ピサネロはこの作品を構想するために多くの素描を残したが、それらの多くはルーヴル美術館に収蔵されている。 この頃の作品である『聖エウスタキウスの幻視』(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)はその完璧な技巧のため長らくアルブレヒト・デューラーの作とされていた。この板絵は動物を真横向きあるいは固定したポーズで、ミニアチュールのような繊細さで表している。この小さな絵(板にテンペラ)の主題である聖人の幻視は、「高貴な」動物たち(馬、狩猟犬、鹿、熊など)と、あらゆる生物の中でもっとも高貴な存在-狩猟する宮廷人-を描くための口実であると思われる。
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