マリーナ・オッキエーナの脱退
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「リッキ・エ・ポーヴェリ」の記事における「マリーナ・オッキエーナの脱退」の解説
1981年に、マリーナ・オッキエーナがグループを脱退した。アンジェラとの強い対立が原因となり、ソリストになる冒険をしようと試みたのである。マリーナの脱退があったにもかかわらず、リッキ・エ・ポーヴェリは解散することなく、成功を得続けた。それどころか、さらに大きな成功をものにしたのである。というのも、1981年に、『Sarà perché ti amo』でサンレモ音楽祭の新人部門に入賞したからである。5位ではあったが、この歌は週別順位で10週間頂点の座につき続け(トップ10には19週間とどまっていた)、この年のイタリアのシングルで最も売れたタイトルの名誉を獲得した。 歌『Come vorrei』(1981年)と『Piccolo amore』 (1982年)は、トリオとして歌唱された初めてのレコードに含まれていたものであるが、いずれも有名な番組『Portobello』(司会者はジェノヴァ出身のエンツォ・トルトーラ (it)である)の第二期のエンディングテーマとして使われるようになった。『Come vorrei』は、サンレモの1981年の出場曲『Sarà perché ti amo』やそのB面の『Bello l'amore』、またトリオとしてのレパートリーのうちの多くの曲と同様に、マリーナ・オッキエーナ脱退後の最初の33回転アルバム『E penso a te』の収録曲になった。 シングル『M'innamoro di te』『Sarà perché ti amo』『Come vorrei』以外にも、4番目のシングル『Made in Italy(日本語題:メイド・イン・イタリー)』(国際版のダンス曲で、魅惑的な繰り返しがあり、よくできた調性の交絡があり、三人のボーカルが次々にかわるがわる歌い、抗えないリズムをもつ)が発売されて、LP版は文字通りランキングを一掃したが、アルバムから複数枚のシングルを出すこの方法は、販促シングル版や45回転レコードからのプロモーション楽曲を出すという古くからのイタリアの伝統に逆らったプロモーション方法であった。たぶんサンレモ、フェスティヴァルバルや当時のほかのショー(Vota la Voce, Saint Vincentなど)など出版の動機になったイベントへの参加として正当化されたものであろう。 『Mamma Maria(日本語題:マンマ・マリア)』『Voulez vous danser』『Ciao Italy, ciao amore』など、数々の歌とさまざまなアルバムがこの成功に続いた。 1985年には、リッキ・エ・ポーヴェリはサンレモ音楽祭で『Se m'innamoro(日本語題:恋に落ちて)』を歌い、初めて1位になった。1988年には、遺伝子工学に反対する内容の、やや議論を呼んだウンベルト・バルサモ (it)作の歌『Nascerà Gesù』で再び参加した。90年代には全国テレビ放送で大いなる成功を収め、同様に国際商業的にも大いなる成功を収めた(とりわけ思い出されるのが、44のコンサートでチケットが完売になったロシアツアーでの凱旋である)。ほかのアルバム、シングル、コンピレーション・アルバムも高い売れ行きを示している。とくにコンピレーション・アルバムは公式・非公式やイタリア・外国を問わず驚くべきスピードで次々にリリースされ、正確なディスコグラフィーを定めるのがほとんど不可能な状態である。
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