マリク‐シャー【Malik Shāh】
マリク・シャー
マリク・シャー
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マリク・シャー(ペルシア語: ملکشاه, ラテン文字転写: Malik Shāh; アラビア語: جلال الدولة معّز الدين أبو الفتح ملكشاه بن الپ ارسلان, ラテン文字転写: Jalāl al-Dawla Mu'izz al-Dīn Abū al-Fatḥ Malik Shāh b. Alp Arslān、1055年8月8日 - 1092年11月19日)あるいはマリク・シャー1世(-いっせい)は、セルジューク朝の第3代スルタン(在位:1072年 - 1092年)。第2代スルタンのアルプ・アルスラーンの子。マリクはアラビア語で、シャーはペルシア語で、それぞれ「王」を意味する。アッバース朝カリフから授けられた尊号は سلطان جلال الدولة معّز الدين أبو الفتح ملكشاه يمين امير المؤمنين Sulṭān Jalāl al-Dawla Mu'izz al-Dīn Abū al-Fatḥ Malik Shāh Yamīn Amīr al-Mu'minīn。
- 1 マリク・シャーとは
- 2 マリク・シャーの概要
- 3 経歴
- 4 関連項目
マリク・シャー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 18:07 UTC 版)
詳細は「マリク・シャー」を参照 アルプ・アルスラーンの後継者マリク・シャーと二人のペルシャ人ワズィールニザームルムルクとタージルムルクの下でセルジューク国はアラブ侵攻以前の嘗てのイラン国境に向けて様々な方面に拡張し、その為に間もなく東は中国と西は東ローマ帝国と国境を接した。マリク・シャーは首都をシャフレ・レイからエスファハーンに遷し、大セルジューク朝が絶頂期を迎えたのは、この時代であった。イクタ軍事組織とバグダードのアルニザミッヤ大学(英語版)がニザームルムルクにより創立され、マリク・シャーの時代は、「大セルジューク朝」の黄金時代と考えられた。アッバース朝カリフは1087年に「東西のスルタン」と名付けた。しかしハサン・サッバーフの暗殺教団(ハシュシャシン)は、この時代に一団となり始め、その指導の下で多くの指導者を暗殺し、多くの出典によると、この犠牲者にニザームルムルクがいた。 1076年、マリク・シャーはグルジアに押し寄せ、多くの入植地を破滅に追い込んだ。1079年から1080年にかけてグルジアは毎年の朝貢という相当な犠牲を払って高価な平和を耐え忍ばせるマリク・シャーに服従するように圧力を受けた。
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マリクシャーと同じ種類の言葉
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