マイヨ・ジョーヌ着用選手不在の事例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/29 13:56 UTC 版)
「マイヨ・ジョーヌ」の記事における「マイヨ・ジョーヌ着用選手不在の事例」の解説
1924年 「犬猿の仲」の間柄であったアンリ・デグランジュに反抗姿勢を示すため、前年総合優勝者のアンリ・ペリシエが、第1ステージ開始前にマイヨ・ジョーヌを脱ぎ捨て、自身が所属するチームのジャージを着用した。 1950年 第12ステージ終了後に総合首位に立ったスイスのフェルディナント・キュプラーが、イタリア選手全員が第12ステージ途中で棄権となった(第11ステージ時点の総合首位はフィオレンツォ・マーニだった)ことに対する観客からの暴動等を警戒して、自身がスイスの国内チャンピオンでもあったこともあり、スイスナショナルカラーのジャージを着用。 1971年 第14ステージでマイヨ・ジョーヌ着用のまま瀕死の重傷を負ってリタイアしたルイス・オカーニャを気遣い、総合首位のエディ・メルクスが第15ステージでは着用を拒否した。 1980年 オランダのヨープ・ズートメルクが、第13ステージでマイヨ・ジョーヌ着用のまま途中棄権したベルナール・イノーを気遣って、総合首位に立ちながらも着用しなかった。 1991年 アメリカのグレッグ・レモンは第8ステージで総合首位に立ったが、レース中のクラッシュによって第6ステージ途中にロルフ・ソレンセンがマイヨ・ジョーヌ着用のまま棄権を余儀なくされたことを気遣い、マイヨ・ジョーヌを着用しなかった。 2007年 ミカエル・ラスムッセンが、第16ステージ終了時点で総合首位にいながらも、チームに対して居場所を虚偽報告していたことが判明し、ドーピング検査回避の疑いがもたれたことから、所属チームのラボバンクから解雇され、棄権を余儀なくされた。第17ステージではルール上はラスムッセンに次ぐ順位であったアルベルト・コンタドールの手にマイヨ・ジョーヌが渡ることになったが、コンタドールは着用資格のあるマイヨ・ブランを着用した。 2015年 イギリスのクリス・フルームは、第6ステージ中のクラッシュによりマイヨ・ジョーヌ着用のまま翌日不出走となったトニー・マルティンとジャージに敬意を表し、第7ステージでマイヨ・ジョーヌを着用しなかった。
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