ポウハタン族の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 09:21 UTC 版)
「ジェームズタウンの虐殺」の記事における「ポウハタン族の衰退」の解説
1624年に、バージニアはイングランド王室領となった。これにより、それまでのようにバージニア会社を経由することなく、王室の統治権が直接バージニアに及ぶことになった。ほとんどの入植地では、入植者はイングランド王室の都合の良いように使われ、個人の利益はあまり鑑みられることはなかった。ポウハタン族の権利はさらに軽視された。インディアンの領土への植民地の拡大と和平合意の破棄は日常茶飯事であり、インディアンたちの不満は高まっていった。 入植者とポウハタン族の関係が悪化していく中、1644年、「第2次アングロ・ポウハタン戦争」が起こった。イングランド側は約500人の死者を出したが、その頃には既に入植者人口の10%にも満たない数値になっており、入植地への影響は22年前の虐殺事件の頃よりは小さかった。この戦争の中で、オプチャンカノフはついに捕らえられた。オプチャンカノフは既にかなりの高齢になっており、担架で運ばなければならなかった。オプチャンカノフはジェームズタウンで投獄され、牢の見張りについていた入植者に殺害された。 調停者であるオプチャンカノフの死亡は、かつてこの地において強大な影響力を誇ったポウハタン連邦の衰退と、白人入植者の時代の到来を意味した。ポウハタン族は土地を追われ、ある者は二度とこの地には戻らず、ある者は入植者に同化し、またある者はバージニアに設立された保留地に強制移住させられた。その保留地さえも、移民の増加によって半ば強制的に割譲され、縮小していった。近代においては、ポウハタン連邦に属した部族は7つしか残っておらず、また保留地もキングウィリアム郡(リッチモンド都市圏内)のパムンキー族保留地、およびマッタポニ族保留地の2つが残っているのみである。 一方、白人入植者はこのバージニアの地に支配基盤を確立していった。虐殺事件ではヘンリカスの入植地と大学が破壊されたが、その71年後、1693年にはミドル・プランテーションにウィリアム・アンド・メアリー大学が設立された。同学はハーバード大学に次いで、アメリカ合衆国内の現存する大学としては2番目に古い大学である。1698年には、バージニア植民地の首都がジェームズタウンからミドル・プランテーションに移され、名も現在のウィリアムズバーグに改められた。
※この「ポウハタン族の衰退」の解説は、「ジェームズタウンの虐殺」の解説の一部です。
「ポウハタン族の衰退」を含む「ジェームズタウンの虐殺」の記事については、「ジェームズタウンの虐殺」の概要を参照ください。
- ポウハタン族の衰退のページへのリンク