ポウハタン連邦の成立
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16世紀後期と17世紀初期、ワフンスナコック(ポウハタン酋長)という酋長がピースメーカー(調停者)となり、テナコマカ(人口密度の高い土地という意味)と呼ばれる東部バージニアの大半を覆うおよそ30部族と、イロコイ連邦のような強力な連邦国家を築いた。 ワフンスナコックは6部族間の調停役を継承したが、イギリス人入植者がそのバージニア植民地を1607年にジェームズタウンに設立した時までに30部族以上を支族としていた。ワフンスナコックの属する「ポウハタン連邦」を構成していた当初の6部族とは自身のポウハタン族と、アロハットク族、アッポマットク族、パムンキー族、マッタポニ族およびチスキアク族だった。 ポウハタン連邦は、1598年までにケコウタン族をその提携部族に招いた。その他の提携部族としては、パムンキー川そばのユータナンド族、ラッパハンノック族、モラウタカンド族、ウェイアノー族、パスパヘー族、およびナンセモンド族などがいた。大きな集落としては、クィユーコハノック、ワラスケオクなどの村が知られた。さらにこれら全て同じ言語を話す部族の中に密接な関係を持った部族がチッカホミニ川流域に住むチカホミニ族だった。 トーマス・ジェファーソンの有名な作品『ヴァージニア覚書』(1781年-1782年)の中で、ジェファーソンはポウハタン連邦が約20,000㎢の領土を占有しており、人口は約8,000人、そのうち2,400人は戦士だったと推計した。 これらの支族はそれぞれが自治を保っており、別にポウハタン族が他部族を「支配」していたわけではない。インディアンの社会に中央集権と言うシステムは無く、「首都」という概念も当てはまらない。
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