ボン、パリ、再度のウィーン(1805年-1809年)[21歳-24歳]
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「フェルディナント・リース」の記事における「ボン、パリ、再度のウィーン(1805年-1809年)[21歳-24歳]」の解説
1805年11月頃、ボンの占領を続けていたフランス軍から徴兵されたため、師弟生活は突如終わりを告げる。リースは不本意ながらラインラントに舞い戻り、コブレンツで徴兵検査を受けるが、「幼少期の天然痘の影響により片目の視力を失っていたため」、結果として兵役を免除され、故郷のボンで約1年を過ごす。 同郷の音楽出版者であるニコラウス・ジムロックにより、初出版作品「2つのピアノソナタ Op.1」が世に出されたのがこの頃である。リースは、短期間ではあるがウィーンでヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーに師事しており、すでに作曲の基礎は学んでいた。ベートーヴェンへのフランス語の献辞が付けられた同作は、一般音楽新聞で大きく紹介される。これ以降、リースの作曲活動は盛んになり、初期の完成作の多くはジムロック社より出版された。 この時期には他に「6つのドイツ語歌曲 Op.7」「カンタータ「朝」Op.27」、初のピアノ協奏曲である「ピアノ協奏曲第6番 Op.123」などが作曲された。また、父もメンバーの一員であるボンのフリーメイソンに入会し、「「メーソンの祝典」ボンのロッジのための歌曲 Op.44-2」などの作品も手がけた。 1807年初頭、さらなるキャリアアップを目論み、リースはパリに旅立った。当時のフランスは戦勝により活気づいていたが、演奏活動はおろか教師の仕事さえ見つけることができず、苦境に陥ってしまう。しかしそれでも「2つのヴァイオリンソナタ Op.8」や「幻想的ソナタ「不運」Op.26」など初期の代表作を含む約25作が書かれた。また、現地の知己からロシアでの音楽活動を提案され、これが数年後に実現されることになる。 1808年8月27日、リースは3年ぶりにウィーンに戻り、ベートーヴェンと再会する。彼が再度ウィーンを訪れた理由は明らかではないが、職を求めていた形跡がある一方、作品の多くを東欧やロシアにルーツを持つベートーヴェンのパトロンに献呈しており、すでに東方への演奏旅行の準備を行っていた可能性も考えられる。
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