ホートンの試練
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 01:30 UTC 版)
連合軍右翼の戦闘は両軍ともに再編成するため一旦落ち着いた。ジラールの師団は、サヤスとの戦闘と、最終的には悲惨なことになったもののフランス軍にかなりの損害を与えたコルボーンの抵抗に苦戦した。ジラールは自分の師団が消耗したと認識し、ガザンの第2師団と交代しようとした。ガザンの大隊は縦隊で前進したが、ジラールの退却する兵士をかき分けなければならなかった。その結果、第1師団の多くの兵が追いやられ、8,000名の大集団に増大していたガザンの縦隊に入り込み、その過程で結束が大きく乱れた。続いて混乱と遅延が発生し、連合軍に横隊を立て直す時間を与えた。ベレスフォードは、ホートン(英語版)の旅団をサヤスの横隊の後方、アバクロンビーをバレステロスの後方に配置し、スペイン軍を救援するためそれらを前進させた。アバクロンビー配下の士官、ジョセフ・モイル・シェラー(英語版)は、若いスペイン軍の士官がやってきて、「自軍の兵が退却を命令されたが逃げなかったと、イギリス軍に説明するよう懇願してきた」ことを詳しく語っている。 この小休止の後、戦いの第2ラウンドが始まったが、むしろ最初の戦闘より血なまぐさいものとなった。フランス軍はアバクロンビーの旅団に対しては散兵を展開しただけで、新たな突撃の矛先をホートンに向けた。コルボーンの旅団の生き残り(第31歩兵連隊)が合流したものの、1,900の兵のみで列を作り前進してくるフランス軍に対峙した。ホートンの3個大隊(第29歩兵連隊、第48歩兵連隊(英語版)第1大隊、第57歩兵連隊(英語版)第1大隊)は甚大な損害を受け、士官95名中56名、兵1,556名中971名が死傷した。 通常、連合軍横隊とフランス軍縦隊の戦闘では、横隊のより大きな火力が決定的要素となるとされる(より狭い縦隊の正面や側面に射撃で圧力をかけれるため)。しかしこの戦闘では、フランス軍の砲兵支援が効果的であった。歩兵の隊形による火力の不利を補うだけでなく、ジラールは大砲を、ぶどう弾とキャニスター弾の十字射撃で縦射(英語版)するのに十分な距離ーホートンの横隊から275メートル(300ヤード)まで近づけた。この戦闘の序盤、第57歩兵連隊のウィリアム・イングリス(英語版)大佐がフランス軍のぶどう弾で負傷した。彼は後方へ運ばれるのを拒否し連隊旗の下に横たわった。戦いが終わるまで彼は「Die hard 57th, die hard!(57連隊、最後まで頑張れ!)」と静かに繰り返した。この後、第57歩兵連隊には「ダイ・ハード連隊(Die-Hards)(英語版)」の愛称が付いた。 この諸兵科連合の突撃によりホートンの師団は3分の2の兵を失った。ホートンも戦死し、損害が増えたため横隊が縮み、もはや攻撃してくる縦隊の正面をカバーすることはできなかった。しかしフランス軍はその数的優位を最大限に利用できる状況になかった。イギリス軍の各個射撃によりジラールはこの攻撃で兵2,000を失った。ジラールは、射撃力を最大にしてホートンの旅団を圧倒するため、大きすぎる軍団規模の縦隊を横隊へ転換しようとしたが、イギリス軍の激しい射撃により、絶えず縦隊に戻ることを強いられた 。
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