ホワイトハウスの生活
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「タッド・リンカーン」の記事における「ホワイトハウスの生活」の解説
エイブラハムが1860年アメリカ合衆国大統領選挙に勝利してアメリカ合衆国大統領に選出されたため、一家はホワイトハウスに移住した。ここがウィリーとタッドの新たな遊び場となった。メアリーの要請に応じてジュリア・タフト(英語版)(1845-1933)、彼女の14歳の弟「バド」(ホレイショ・ネルソン・タフト・Jr.、1847-1915)と12歳の弟「ホリー」(ハルゼイ・クック・タフト、1849-1897)がホワイトハウスに呼ばれ、2人の男の子はウィリーとタッドの遊び仲間になった。また、この三人の姉弟の長兄(異母兄)であったチャールズ・サビン・タフト(英語版)(1835-1900)は内科医であり、後1865年4月14日夜、エイブラハム・リンカーン大統領がフォード劇場で狙撃された際、偶然に客席に居合わせ、同じく居合わせた外科医チャールズ・リールとともに、遭難直後の大統領を診察した医師二人のうちの一人となった。 1862年2月にリンカーン家の両方の少年が腸チフスにかかり、寝たきりになった。タッドは回復したものの、ウィリーは1862年2月20日に亡くなった。ウィリーの死後、両親は以前にも増してタッドを甘やかすようになった。父の存命中は衝動的でわがままな性格で、学校には通わなかった。ジョン・ヘイはホワイトハウスでの少年の家庭教師の多くが失意のうちに辞職すると書いている。ホワイトハウスを自由に走り回り、大統領会議を中断させたり、動物を集めたり、父に会いに来た訪問客にちょっかいを出したりするなどのエピソードが残されている。 1865年4月14日に両親がフォード劇場で『われらのアメリカのいとこ(英語版)』を観劇している間、タッドは『アラジンとワンダフルランプ』の演目を見るためにグローバー劇場(英語版)に行った。その夜に彼の父はジョン・ウィルクス・ブースに銃撃されて致命傷を負った。このリンカーン大統領銃撃事件のニュースはグローバー劇場にも伝えられ、管理者が全聴衆に向けて発表を行った。タッドは動揺して走りながら、「やつらがパパを殺した! やつらがパパを殺したんだ! 」と叫んだ。メアリーは「タッドを連れておいで。口をきいてくれるでしょう。あんなにも彼を可愛がっていたのだから」と言い、末息子をピーターセンハウス(英語版)で死の床にあるエイブラハムに会わせようとした。しかし、彼女の願いは聞き入れられず、タッドは護衛されてホワイトハウスに戻った。その夜遅く、ホワイトハウスのドアマンが悲しみに沈んだタッドを寝かしつけた。エイブラハム・リンカーンはその翌日、4月15日午前7時22分に亡くなった。タッドは父の死について次のように述べている。 「 パパは死んだ。このまま二度と会えないなんてとてもじゃないけど、信じられないよ。今は自分のことは自分自身で解決しなければならないんだ。そうだ、パパが死んで、ぼくも今やただのタッド・リンカーン。リトル・タッド、どこにでもいる少年さ。今のぼくは大統領の息子じゃないんだ。もうたくさんのプレゼントをもらえないんだ。まあ、いい子になって、いつか天国にいるパパとウィリー兄さんに会いにいきたいな。 」
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