ホレス・ホリーとの紛争
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「ジョセフ・デシェイ」の記事における「ホレス・ホリーとの紛争」の解説
デシェイの知事就任中におきたもう一つの問題は、トランシルベニア大学学長ホレス・ホリーを拒絶したことだった。ホリーが1818年に学長に就任した時から、大学は全国的に著名になり、コンスタンティン・サミュエル・ラフィネスク、ダニエル・ドレイク、チャールズ・コールドウェル、ウィリアム・T・バリー、ジェシー・ブレッドソーなど、質が高く尊敬される教授陣を惹き付けてきた。しかし、ホリーがニューイングランドのユニタリアンを信奉していることで、多くのケンタッキー人にとってはあまりにリベラルだった。多くの者がホリーを異端者だと言い、大酒飲みで賭け事好きだと非難した。競馬で時間を過ごし、家にはヌードの古典的な彫像を置いていると批判された。 1824年アメリカ合衆国大統領選挙の時に、デシェイはホリー論争に引き込まれた。一般選挙ではどの候補者も過半数を制することができず、決着はアメリカ合衆国下院に持ち込まれた。デシェイとケンタッキー州議会の新裁判所派は、州選出の代議員にアンドリュー・ジャクソンに投票するよう指示したが、下院議長ヘンリー・クレイが率いた代議員団はこの指示を否定し、ジョン・クィンシー・アダムズに投票した。このことで、トランシルベニア大学理事でありホリーの支持者でもあるクレイがデシェイの政敵になった。アイザック・デシェイの裁判の後で、トランシルベニア大学の学生が大学の礼拝堂で知事を批判する演説を行ったことで、大学とホリーに対するデシェイの敵対心が悪化していった。ホリーはその演説の現場に居合わせたが、トランシルベニア大学の歴史家ジョン・D・ライト・ジュニアは、ホリーが前もってその学生の演題を知ってはおらず、それを聞いた後も内容を正すような動きがなかった、と記していた。しかし、学生が政治的にどのような立場を採ろうと、同時代の政治問題について率直に語るのを認めるのがホリーのやり方だった。ホリーが学生を制止しなかったために、州の最高行政官を無礼にも批判しているのを、それとなく認めた落ち度があるとデシェイは主張した。 1825年11月、デシェイは議会に対する教書演説でトランシルベニア大学とホリーを攻撃した。大学は前年の議会で割り当てられた公的資金を賢明に利用していないと主張し、特にホリーの学長としての給与はデシェイより高いと述べた。デシェイは最後に、ホリーが指導するトランシルベニア大学はあまりにエリート主義となってきており、学費が高いために他のものには成り得ないと主張した。デシェイや議会と話すためにフランクフォートにきたホリーは、デシェイの演説のときに出席していた。ホリーはその後で、レキシントンに戻る代わりに、辞表を提出した。大学理事会でホリーに同調する理事達はもう一年学長として留まるよう説得した。ケンタッキー州の歴史家ジェイムズ・クロッターは、ホリーが辞職したことで「おそらく世界的な大学となる最大のチャンスが無くなった」と述べていた。
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