ホッツ司令官殺害 - 人質の処刑
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「ギィ・モケ」の記事における「ホッツ司令官殺害 - 人質の処刑」の解説
こうしたゲリラ戦において、1941年10月20日、ナントに配属されたカール・ホッツ(フランス語版)司令官が、ブリュストラン、および同じく青年共産党員のマルセル・ブールダリア(フランス語版)(17歳)、スパルタコ・グイスコ(フランス語版)(30歳)に殺害された。カイテル令により、ヒトラーは当初、収容所・刑務所に収監された人質を含む150人の処刑を命じた。パリのドイツ軍司令部ではオットー・フォン・シュテュルプナーゲル(ドイツ語版)歩兵大将がこれを受けて、翌10月21日に「人質50人を銃殺刑に処する」、また、「1941年10月23日までに犯人が逮捕されなかった場合にはさらに50人の人質を銃殺刑に処する」とする通達を出した。ヴィシー政府の内相ピエール・ピュシュー(フランス語版)は共産党員が多数収監され、ナントから近い場所にある(約70キロ)ショワゼル刑務所の司令官に人質のリスト作成を命じた。リストには27人の名前があり、うち25人が共産党員で、タンボー(31歳)、グランデル(50歳)、シャルル・ミシェル(38歳)ら党の中堅幹部のほか、19歳または21歳の党員が4人、そして最年少17歳のギィ・モケの名前が挙がっていた。 彼らは最後に手紙を書く時間を与えられた。ギィ・モケは両親と弟宛に手紙を書いた。母を元気づけ、父が「示した道を歩むために最善を尽くしたことを知ってほしい」とし、「心から願うのは、僕の死が何かの役に立つこと」、愛する人々と別れなければならないこと以外「何の悔いもない」と書いている。この手紙を受け取った母ジュリエットは、これを書き写してアルジェリアのメゾン・カレ収容所にいるギィ・モケの父プロスペールに送った。なお、この手紙は現在、シャンピニー=シュル=マルヌ(イル・ド・フランス地域圏、ヴァル=ド=マルヌ県)の国立レジスタンス博物館(フランス語版)に保存されている。 また、シャトーブリアンのほか、ナントから16人、パリから5人の人質が選ばれた。計48人の処刑は通達の翌日の1941年10月22日に行われた。ショワゼル刑務所の人質27人は、シャトーブリアンから2キロ離れた、現在「銃殺刑に処された人々の砂利採取場(Carrière des Fusillés)」と呼ばれている場所までトラックで移送された。彼らはシートで覆われたトラックの中でフランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」やパリ・コミューンから生まれ、当時ソ連の国歌でもあった革命歌「ランテルナシオナル」 を歌い続けた。砂利採取場には9本の丸太の柱が建てられ、7人ずつ一斉に撃たれた。彼らは「目隠しもせず、手も縛られずに」、死刑執行人に顔を向けながら、「ラ・マルセイエーズ」を歌い続け、「フランス万歳、共産党万歳、ソビエト万歳」と叫びながら撃たれた。 ギィ・モケらの遺体は近くの墓地(シャトーブリアンから9キロのところにあるサン=トーバン=デ=シャトー(フランス語版)墓地)に埋葬され、後にペール・ラシェーズ墓地に移された。このとき墓地に遺体が到着したのを目撃した詩人のルネ・ギィ・カドゥー(フランス語版)は「シャトーブリアンで銃殺刑に処された人々(Les Fusillés de Châteaubriant)」と題する詩を書き、詩集『胸一杯(Pleine Poitrine)』として戦後1946年に発表した。 国際的な反響も大きかった。数日後に、シャルル・ド・ゴールがロンドンから追悼の辞を述べ、チャーチルとルーズヴェルトも公式にこの処刑を非難した。ド・ゴールはさらに父プロスペール・モケに繰り返し同情の意を表した。
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