ペイオラと死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 23:00 UTC 版)
やがて、フリードは「ペイオラ・スキャンダル(英語版:Payola)」と呼ばれる音楽業界内の不祥事に巻き込まれるに至った。Payolaとは、支払いを意味するpayとレコードプレイヤーの代名詞であったVictrolaの合成語で、レコード会社がDJに働きかけて特定のレコードを流してもらう見返りに、DJにリベートを支払うことをさす言葉である。DJは雇用的に不安定な職業で賃金も低かったため、生活の大半をこのペイオラに頼っていた。また、1950年代当時はペイオラを違法とする法律も存在しなかったため、そのやりとりは業界内で慣例化し、謝礼行為として認知されていた。 しかし1958年、米国作曲家作詞家出版者協会(ASCAP)はペイオラを放送倫理の腐敗と激しく非難し、下院議会に意見を諮っていた。議会はこの意見を聴き入れ、ペイオラを商業上の賄賂とみなし、違法とする法律を制定した。これにより、1959年から1960年にかけて、ペイオラに関わったDJをはじめとする音楽関係者の多くが、容赦なく業界から追放された。全米で最も有名なDJとなっていたフリードも、司法の追及をまぬがれることはできなかった。 1959年11月に、所属のWABC局から「過去いかなるレコード会社からも金品をもらっていない」という宣誓書に署名を求められたが、これを断ったため、WABC局はフリードを解雇した。その後フリードは、1960年5月に商業贈収賄(Commercial bribery)の罪で告発され、その結果、1962年に罰金300ドルと6ヶ月の謹慎処分の実刑判決を受けた。 WABCから解雇されたフリードはニューヨークを離れ、カリフォルニア州ロサンゼルスのKDAY局、フロリダ州マイアミのWQAM局などを渡り歩いた。しかし、かつてのように自由なスタイルで仕事を任されることはなく、いずれも長続きしなかった。次第に彼は自暴自棄に陥り、アルコールに依存する日々が続いた。また、罰金のために多額の負債を抱えたことで自宅を差し押さえられ、生活すらままならなくなった。1965年1月、フリードは肝硬変と尿毒症を患い、43歳で死去した。
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