プロイセン、ポーランド戦役
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「アントワーヌ・シャルル・ルイ・ド・ラサール」の記事における「プロイセン、ポーランド戦役」の解説
前線に派遣されたラサールはミュラ元帥の予備軍を率いることとなった。 アウステルリッツの戦い アウステルリッツの戦いではミュラの予備軍として竜騎兵を率い、迅速にロシア軍背後に迂回し、突撃を仕掛けた。敵軍は為す術無く潰走した。この活躍により精鋭軽騎兵旅団の指揮を任されるようになった。この旅団はプロシア戦役において比類無き活躍をし、敵から「地獄旅団」と恐れられるようになる。 イエナの戦い イエナの戦いにおいてラサールは「地獄旅団」を率いて激しい騎兵突撃を行い、プロイセン親衛隊を捕獲し、ホーエンローエ軍を退却させた。そして、ホーエンローエ軍をツェーデニック近くの森まで追撃した。ここで戦列を立て直したホーエンローエは圧倒的数的優位を背景に反撃を試みたが、ラサールは突撃を敢行し、敵軍を大きく押し戻した。さらに援軍としてグルーシー将軍が到着すると、ホーエンローエ軍を見事に打ち破った。敵の残兵はてんでんばらばらの状態で森に逃げ込んだ。 同年10月28日にラサールはプレンツラウに到達した。プレンツラウには多くのホーエンローエ軍の残兵が集っていた。遅れて到着したミュラ元帥は彼に「街の北門を猛襲せよ。」と命令した。ラサールは迅速に騎兵を招集し、北門を打ち破って街に雪崩れ込んだ。しかし、数分前に敵軍は北東方向にあるステッチン要塞に向けて街を発っていた。 ステッチンにて 後日、ラサールはステッチン要塞に到達した。彼は到着するや否や臨戦態勢を整えた。その様子を見て、敵軍の主将は書簡で「ステッチン要塞は我が軍勢で頑丈に守られている。我々はたとえ最後の一兵になろうとも戦い抜くつもりだ。」と書き送り、強い交戦意志を示した。これに対し、ラサールは「もうじき味方の増援砲兵部隊50,000が到着する。そして24時間以内に要塞を破壊し尽くすだろう。(実際には増援部隊は存在しない)」とはったりをかけた。敵の主将はその書面を見て狼狽え、降伏の交渉を行うことに決めた。10月29日 - 30日の間に5,000人のプロイセン兵が投降し、281門の大砲が運び出された。 一連の活躍で彼は国民的英雄となった。ナポレオンも彼の機転の利いた行動に大変満足した。 ゴウミンの戦い ゴウミンの戦いでは「地獄旅団」を率いてロシアに対して二回騎兵突撃を仕掛けた。一回目の突撃では部隊間の統制が上手くとれておらず、大した戦果を挙げられなかった。しかし、2回目は部隊を第7騎兵連隊のみに絞り、敵の側面から突撃した結果、大いに打ち破ることに成功した。ロシア兵は壊滅状態に陥り、追撃してくる「地獄旅団」に戦き、支離滅裂しながら逃亡した。 1806年にラサールは師団長に昇進し、ミュラの軽騎兵師団を任されるようになった。この中には、かの有名なポーランド軽騎兵部隊も含まれていた。 リジバルクの戦い 1807年6月12日、ミュラ元帥はロシア軍の竜騎兵部隊90,000<>に包囲されていた。急いで駆けつけたラサール率いる「地獄旅団」は時機を見計らってミュラの騎兵部隊と挟撃を行い、ミュラの救出に成功した。この際に6,000人近くのロシア兵を死傷させた。 これらの活躍によりナポレオンから一等ナイト爵位を授与された。
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