ブロディ包囲戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 01:56 UTC 版)
「リヴォフ=サンドミール作戦」の記事における「ブロディ包囲戦」の解説
南ではソビエト赤軍の大規模攻撃がドイツ第1装甲軍、第4装甲軍の接合部に狙いが定められていたが、師団規模のC軍団支隊(en)によって7月14日、撃退された。第1ウクライナ方面軍はさらに南への攻撃を強化、激しい砲撃、空軍による爆撃の後、弱体化していたドイツ第349、第357歩兵師団を攻撃した。第349歩兵師団は殲滅され、生存者らは混乱の中、退却した。C軍団支隊、第357歩兵師団の活躍のために、第1ウクライナ方面軍の突破は3-4Km幅しか得られなかったが、これにもかかわらず、第1ウクライナ方面軍はドイツ第XIII軍団とその隣の第XLVIII装甲軍団の間を分断するためにゾロチェフ、サソフへ向かい進撃した。 軍団と第18砲兵師団の両方からドイツ軍砲兵は「コルトフ回廊」と名付けられた狭い突出部に浸透し始めた。ウクライナ武装親衛隊義勇兵で編成された第14SS武装擲弾兵師団 ガリーツィエン(ウクライナ第1)はドイツ第1、第8装甲師団らと共に急激な反撃を行った。ガリーツィエン師団、第1装甲師団が良好な戦いを行う間、第8装甲師団は方向を見失い、第XLVIII軍団、第1装甲軍から切り離され、攻撃に加わることができず、第XIII軍団の担当区域に居た。第8装甲師団の欠如は攻撃が失敗に終わることを意味しており、第8装甲師団長は露骨に命令無視を行い、近道を利用して先に進もうとした。代わりに、師団はリヴォフ-テルノポリ間の一部をなすゾロチェフ-ズボロフ間の道路上において縦列を組んでいたが、赤色空軍の「戦闘爆撃機」の攻撃を受け、多大な損失を被っていた。 7月16日、コーネフは大きな危険を冒してまでも、第3親衛戦車軍(司令官パーヴェル・ルイバルコに南への進攻を任せたが、これは絶え間ない砲撃と激しいドイツ軍の反撃のため、部隊がKoitiv回廊を進まなければいけないことを意味していた。第1親衛戦車軍はリヴォフ方面に比重を置き、ソビエトの進撃は西で再開された。第XIII軍団の司令官はそれが全周包囲を避けることができるのならば、軍団が撤退する必要があることに気づいた。プリンツ・オイゲン防衛陣地(1944年6月、テルノーピリの西方35Kmのストルィーパ川沿いに築かれた一連の無人防衛陣地)へ軍団の全ての部隊が交代するよう命令がでた。7月17日を通して行われた第1ウクライナ方面軍の強力な攻撃は、プリンツ・オイゲン防衛陣地の一部を占領することに成功した。第14SS武装擲弾兵師団はこれらの失われた箇所を奪還しようとして戦闘に加わったが、幾つかの成功の後、ソビエト赤軍IS-2スターリン戦車部隊に遭遇、前進は停止した。指揮下部隊からの再三の警告にも関わらず、第XIII軍団軍団長アルトゥール・ハウフェ(sv)はブロディにおける突出部を形成している部隊に撤退命令を出さなかった。そのため、第XIII軍団所属の3個師団とC軍団支隊の運命は定まった。 7月18日、第1ウクライナ方面軍が再開した攻撃は、リヴォフ方面でドイツ軍を突破した。その日の遅く、第1ウクライナ方面軍の先遣部隊はバスクの町近郊で合流した。ドイツ第XIII軍団所属は完全包囲され、ブロディ周辺に閉じ込められ、200Kmに及ぶ突破口がドイツ北ウクライナ軍集団の戦線に沿って形成された。
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