ブレーメン講演
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:40 UTC 版)
「マルティン・ハイデッガー」の記事における「ブレーメン講演」の解説
1949年12月2日-4日「ブレーメン連続講演 有るといえるものへの観入」。ブレーメン講演では「物が物となる(das Ding dingt)」という事態において性起における存在者の現前の仕方とは、「大地」「天」「神的なるものたち」「死すべきものたち」の四者が、おのずから一つの「四方界 (das Geviert)」となって共属しつつ物に滞留することと語られた。また第一講演「物」では「死は、無の聖櫃として、[真]存在の山並み(Gebirg)である」と語られた。 前年1949年11月から「ヨーロッパユダヤ文化再建委員会」のナチス略奪文化財の調査で訪欧していたハンナ・アーレントが、ヤスパースに会ったあと、1950年1月にフライブルクを訪問し、ハイデッガーと会った。ハイデッガーはアーレントのホテルを訪れ、またハイデッガーの家では妻エルフレーデと三人で会ったが、諍いとなった。 1950年3月7日、ハイデッガーはヤスパースへの書簡で1933年以来、ヤスパース家を訪問しなかったのは夫人がユダヤ人であったからではなく、「ただ自分を恥じたからなのでした」と述べている。 1950年3月25-26日、保養所ビューラーヘーエにある医師ゲーアハルト・シュトローマンのサナトリウムで「在るところのものへの観入」講演をする。講演は1957年までに四回行われた。聴衆はバーデン=バーデンで年金生活を送っている名士、産業界の大物、高級官僚、政治家、外国の高官らであった。6月6日、バイエルン芸術学士院で「物」を講演し、世界の四方域(Geviert)について語られた。会場は満員であった。ロッツ、ユンガー兄弟、R・ハルダー、フォン・ヴァイツゼッカー、ハイゼンベルク、グァルディーニらも聴講した。 1950年4月8日のハイデッガーからのヤスパース宛書簡についてヤスパースは「ハイデッガーの言うには、悪の事態は終わったのではなく、今初めて世界の舞台に登場した。スターリンはもはや宣戦を布告する必要はない。毎日のように戦闘に勝っているからだ。今はもう戦争回避はない。一言一言、一文一文がたとえ政治の領域のことではなくても、反撃なのである。政治の領域は、とっくに他の存在関連によって巧みに隠蔽され、ただ仮象の現存在を生きているだけなのだ。事柄が簡単になればなるほど、それを考え、言葉に出すのは難しくなるというあの昔の話は、書面での討論の素晴らしい提案にも当てはまる。故郷喪失の現況では、何事も起こらない。そこにはキリスト降臨のはるかなる合図が潜んでおり、我々はおそらくひそかにそれを体験しているのである」と書いている。
※この「ブレーメン講演」の解説は、「マルティン・ハイデッガー」の解説の一部です。
「ブレーメン講演」を含む「マルティン・ハイデッガー」の記事については、「マルティン・ハイデッガー」の概要を参照ください。
- ブレーメン講演のページへのリンク