フレヴォ湖と北海の拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/06 16:29 UTC 版)
「ゾイデル海」の記事における「フレヴォ湖と北海の拡大」の解説
2000年前のローマ帝国時代には、オランダ北部の海岸線は現在の西フリースラント諸島付近にあり、その内側の現在はワッデン海となっている部分は湿地帯であった。現在のアイセル湖南部に当たる場所には大きな湖があり、ローマ人たちは「Lacus Flevo」(フレヴォ湖)と呼んでいた。これは後のゾイデル海よりも小さく、フレヴォ湖と北海との間は多くの河川や湖の広がる湿地で阻まれていた。しかしフレヴォ湖畔のピート(泥炭)でできた柔らかい湖岸は波で浸食されやすく、中世までの間に湖は大きくなっていった。 中世にはこの湖の一部は「Vlie」(フリー)と呼ばれており、現在のフリーラント島とテルスヘリング島の間のフリー海峡付近に海への出口があったとみられる。現在テセル島とデン・ヘルデルの間にある、北海とワッデン海を結ぶ海峡・Marsdiep も、当時はフリー湖と海とを結ぶ川のひとつ「fluvium Maresdeop」であった。 中世早期になると、海面の上昇と冬の北海の荒天によりオランダ北部海岸の砂丘や泥炭地が波で削られ始め、砂丘背後の湿地帯は海に変わり始めた。フリー湖も「Almere」(アルメレ)と呼ばれる入り江へと拡大したが、まだ大きな潟湖の域を出なかった。12世紀から13世紀にかけて海面の上昇は著しく、北ホラントを次々に襲った大嵐・高潮・洪水で、海沿いの土地は水没し泥炭地は洗い流され、フレヴォ湖と海との間の河口も広がった。 1170年11月1日から2日にかけての「万聖節の洪水」(Allerheiligenvloed)では高潮が砂丘を乗り越え、海水が「Creiler Woud」と呼ばれる森林地帯を通ってフレヴォ湖に流れ込んだ。この洪水で砂丘の後ろにはワッデン海が形成され、フレヴォ湖は「ゾイデル海」に変わり、波で流失した泥炭地や森林地帯が陸地に戻ることはもはやなかった。1196年の聖ニコラスの洪水(Sint-Nicolaasvloed)では、1170年に開いた海峡が拡大し、フリースラント西部の広大な泥炭地が海へと変わった。1212年には6万人が犠牲となり、1219年1月16日の聖マルケルスの洪水(Sint-Marcellusvloed)でも36,000人が犠牲になった。1282年の大洪水で現在のテセル島付近の砂丘が破れ、ワッデン海およびゾイデル海は拡大した。 さらに1287年12月14日には北海の嵐で低地に一気に海水が流れ込み、5万人から8万人の死者が出る惨事となった(聖ルチア祭の洪水、Sint-Luciavloed)。この洪水で沈んだ土地のほとんどでは、その後海水が引くことはなく、そのままワッデン海あるいはゾイデル海の一部へと変わった。西フリースラント諸島のGriend島は海中に没し、現在ではわずかな砂州が海面に顔を出すに過ぎない。ゾイデル海が拡大し北海とつながったことにより、アムステル川沿いの漁村アムステルダムではゾイデル海を経て北海へ出る航路が開け、やがてバルト海交易路と結ばれる交易都市になる。
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