フリッチュ同性愛容疑問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 01:18 UTC 版)
「ブロンベルク罷免事件」の記事における「フリッチュ同性愛容疑問題」の解説
当時、ドイツにおいて男性の同性愛は犯罪であり、取り締まられていた。フリッチュは清廉で女性関係の噂もなかったために、この容疑での失脚が謀られた。 フリッチュへの工作は、ゲシュタポの刑事部男色撲滅課課長マイジンガーが担当した。1936年頃、同性愛容疑がかかっていた軍人が一人存在した。それは「フォン・フリッシュ(Frisch)」騎兵大尉であり、フリッチュ(Fritsch)と姓のスペルが一字違いの人物だった。しかし調査の段階で係官は「フリッチュ」大将であると誤認し、証人も「フリッチュ」大将であると認めた。そのため調書が取られ、ヒトラーに報告された。しかし当時はフリッチュが再軍備に必要な人材であり、軍の粛清は時期尚早であるとの判断で調書の破棄が命じられた。ハイドリヒは調書の原本は破棄したが、コピーを保存していた。その後の調査の結果、容疑者は「フリッシュ」大尉であることは判明していた。 1938年、ハイドリヒはこの調書に手を加えてヒトラーに提出した。1月25日、この調書を材料に、ヒトラーとゲーリングは総統高級副官ホスバッハ大佐にフリッチュの同性愛疑惑を信じさせようと説得工作を行った。ホスバッハは将校団に信頼されていたため、将校団説得の材料としようとしたのだが、ホスバッハは納得せず、フリッチュにこの疑惑を通報した。 しかしフリッチュの対応は墓穴を掘るものとなる。まず他の幹部との相談をすすめるホスバッハの意見を却下した。また、親代わりとなって世話をしている少年達の存在が誤解されたのだと予想し、ヒトラーとの会談では、自分から少年達の存在を問題とした。さらに「証人」との対決でも精彩を欠き、悪印象を与えるばかりであった。 1月28日、ヒトラーはフリッチュに対し、ゲシュタポ本部で担当官の質問に答えるよう指示した。本来、ゲシュタポには軍に対する捜査権はなく、フリッチュはこの指示を拒否することも出来た。しかし、憔悴しきったフリッチュはそれに抗うことなく、ゲシュタポ本部での尋問に応じた。参謀総長ベックは、「これで軍は党の支配下に置かれた」と慨嘆したという。フリッチュは「健康上の理由で罷免を申し出て許可された」という形での罷免が決定された。
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