フィールドグレーの支給野戦服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 17:00 UTC 版)
「制服 (ナチス親衛隊)」の記事における「フィールドグレーの支給野戦服」の解説
1937年にこの二つの野戦服が統一し、フィールドグレーの野戦服が制定され、特務部隊と髑髏部隊に支給された。これはM37野戦服と呼ばれる。ドイツ陸軍のM36野戦服をモデルにして作られたが、襟が制服と同じフィールドグレーである点(陸軍のは襟の部分がダークグリーンだった)や下ポケットが切り込み式で斜めについている点(陸軍のは上下ポケットともに貼り付け式で水平になっている)などが陸軍M36野戦服と異なった。詰襟でも開襟でも着る事が出来た。ただ1940年頃までアースグレーの野戦服を着用している部隊も存在したとされる。 戦争がはじまり、武装SS隊員数が急増した1939年末に武装SSは陸軍のM36野戦服の大量支給を余儀なくされた。これにSSの徽章をあしらった野戦服が1940年から支給されるようになった(M40野戦服)。陸軍のM36野戦服の使いまわしなので襟がダークグリーンの物もあるが、陸軍型野戦服も1940年以降に生産された物は襟がフィールドグレーになっていた(M40野戦服)。SS被服工場でもM40野戦服に準じた野戦服が製造されており、これは襟をフィールドグレーにして製作していた。 もともとSSの被服工廠はダッハウ強制収容所にしかなかったが、1939年にラーフェンスブリュック強制収容所にも置かれるようになり、第二次世界大戦緒戦の勝利により占領地にも続々と置かれ、1941年には生産体制が整い、陸軍に頼ることなく独自に野戦服を生産できるようになった。1941年より生産されたM41野戦服は外見はM40野戦服(陸軍用野戦服の流用品)と類似していたが、裏地の仕様が大きく異なっていた。さらに1942年になるとポケットのプリーツを廃したM42野戦服が生産されるようになった。さらに1943年にはポケットの口の形が単純化され直角になったM43野戦服が支給されるようになった。素材もウールの使用量が大幅に減らされ保温機能が悪化した。 1944年には更なる生産工程の簡素化のために野戦服が全軍共通になり、徽章のみが異なる「M44野戦服」が生まれた。これは極端に丈が短く、胸ポケットのみで、それまでの野戦服の下半分が簡略化された裁断になっている。そのため、英軍の野戦服「バトルドレス(英語版)」とデザインが類似している。素材はさらに粗悪品となり消耗が激しかったという。 (SS-VT/WSSの勤務服及び野戦服の配色の変遷) 色年代 1934年~1935年 1935年頃 1936年頃 1940年頃 1944年頃 1945年頃 下士官用の陸軍型M40野戦服。 左端の下士官は襟の色が濃い陸軍型のM40野戦服。隣の兵士たちは襟の色が服と同色のM40野戦服(1942年6月ロシア。ヴィーキング師団兵) 陸軍型のM40野戦服 襟の色が服と同色のM40野戦服。首に掛けたゴルゲットは憲兵勤務に就いていることを示す(2016年ノース・ヨークシャー・ムーアズ鉄道(英語版)戦争ウィークエンド) ポケットのプリーツが無くなったM42野戦服 M42野戦服を着る第12SS装甲師団「ヒトラー・ユーゲント」の兵士たち。 M42野戦服 SDのSS伍長のM43野戦服。ポケットのプリーツが無く、ポケットの口は直角。 M43野戦服。左型のメダル状のものは認識票で、本来は首に掛けて上衣または肌着の下で携帯される 丈が短いM44野戦服。左上腕の白腕章は巡察勤務中であることを示す SSのリエナクター
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