ピエモンテ公時代
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父ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世からの強い期待により、ウンベルトは幼い時より厳しく育てられた。軍人の道に進むための教育を受け、また趣味でスポーツを得意とするウンベルトは又従兄のアメデーオと並んで国民に人気のある王族に成長した。18歳の時に父の後ろ盾を得たムッソリーニが独裁政権を樹立すると、ファシストは王家との親睦を強調する一環としてウンベルト2世との結びつきを深めた。 1924年9月、父の代理として南米各国(ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、チリ)を歴訪し、政府要人と会談しつつ南米開拓と縁の深いイタリア系移民の会合に出席している。背景には、ファシスト政権を支持する傾向にあった南米の諸政権との結び付きを深める意図もあったと見られている。ブラジルでは第一共和政を打倒してムッソリーニ政権を手本にエスタード・ノーヴォ体制を形成したジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス大統領と会談した。政情が依然として不安定であったため、リオデジャネイロから遷都した臨時首都サルヴァドールでの歓迎式典となり、滞在中にウンベルトは20歳の誕生日を迎えている。各地のイタリア系移民の式典にも当時ブラジル大使を務めていたピエトロ・バドリオ将軍やヴァルガス政権の外務大臣らを従えて出席した。 帰国後は将校として一通りの経験を積んだ後、父から名誉昇進として陸軍中将に推挙され、南部方面軍総司令官に就任した。もっともこれはサヴォイア家の慣例に基づく形式的なものであり(Luogotenente)、実際の指揮権は補佐役の将軍たちやファシスト政権に委任されていた。 父と同じくウンベルトもまた、ファシスト政権とムッソリーニをサヴォイア家の忠臣として信頼し、彼らへの協力を惜しまなかった。そのために反ファシズム勢力からは強く敵視され、ブリュッセル訪問中の1929年10月24日に暗殺未遂事件を起こされることになる。折りしもベルギー王女マリーア・ジョゼとの婚約が取り決められた日、第一次世界大戦で戦死したベルギー兵の記念碑に献花を行っていたウンベルトは、見物客の一人に銃撃された。男は「ムッソリーニと共に倒れろ!」と叫んで銃を撃ったが、弾は外れ、取り押さえられた。暗殺犯はフェルナンド・デローザという男で、第二インターナショナルの構成員だった。 とはいえ、独立した政治行動は父もムッソリーニも望むところではなかった。新婚旅行でドイツを訪問した時に、ウンベルトがアドルフ・ヒトラーと会談を行ったことは、後々イタリア国内で問題視された。ファシスト政権はウンベルトの独断での政治行動を注意深く監視するようになった。
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