ピエモンテへの侵入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 00:50 UTC 版)
「イタリアのイスラム教」の記事における「ピエモンテへの侵入」の解説
セプティマニアとナルボンヌからやってきたアラブ人とベルベル人は、729年から765年にかけてスペインの西ゴート王国を征服した後、イタリア北部へと侵攻を開始し、793年には再度フランス南部(ニースへ813年、859年、880年)へと侵攻した。888年、アル・アンダルスのムスリムたちはフランスのプロヴァンス、フレジュス付近のフラフシャニートに新たな拠点を築き、この拠点からフランス沿岸部と内陸部へ侵攻を開始した。 915年のガリリャーノの戦い(英語版)の後、ムスリムはラツィオ南部の拠点を失った。926年にはウーゴ王がイタリア北部の政敵と戦うため、ムスリムを招集した。934年と935年、ジェノヴァとラ・スペツィアが攻撃を受け、続いて942年にはニースが襲撃を受けた。ピエモンテにおいてムスリムたちはアスティとノーヴィまでの地域を獲得、さらにローヌ渓谷とアルプス山脈の西斜面に沿って北へと進軍した。ブルゴーニュ公国軍を破った後、942年から964年までサヴォワを征服し、952年から960年までスイスの一部を占領した。アラブ人と戦うため、ウーゴ王の仇敵であったベレンガーリオ1世はマジャール人傭兵を招集、マジャール人傭兵はイタリア北部を蹂躙した。ドイツの王らの圧迫の下、フラフシャニートは972年に降伏したが、30年後の1002年にジェノヴァは侵攻を受け、1004年にはピサも侵攻を受けた。 ピサとジェノアは結束し、コルシカ島(イスラム暦/西暦:810/850-930/1020)とサルディーニャ島のムスリムによる支配を終わらせた。1015年にはアンダルスのデニア公率いる軍隊がスペインからサルディーニャ島へと来訪し、ティレニア海とイタリア半島を支配下に置くための兵站用の一時的な軍営を設置したが、1016年、ジェノアとピサの両海洋共和国による軍事介入のために部隊は軍営からの撤退を強いられた。
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