ビーチの気送管式地下鉄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 23:42 UTC 版)
「ニューヨーク市地下鉄」の記事における「ビーチの気送管式地下鉄」の解説
ニューヨークで最初の「地下鉄」は、1869年にサイエンティフィック・アメリカン誌の編集者で弁理士、発明家のアルフレッド・イーリー・ビーチが建設したビーチ・ニューマチック・トランジットである。 当時ニューヨークは水運や工業の発達と移民の流入によって人口が大幅に増加し続けており、現在の市域にあたる5郡の人口は1830年には約24万3000人だったものが60年後の1890年には10倍以上の約250万7000人にまで増加していた。人口の大半が集中するマンハッタン島には1832年に開業した馬車鉄道や乗合馬車の他に交通機関がなく、19世紀中頃には街路の横断が「命がけ」と称される程の激しい道路混雑が問題となっていた。ビーチの地下鉄はこの問題の解決策として計画されたが、彼の設計した地下鉄は当時ロンドンの地下鉄が蒸気機関車を使用していたのとは異なり、気送管の技術を応用しトンネルとほぼ同じ大きさで円筒形の車両を送風機によって押し出すか吸い出すことで運転するという特殊なものだった。 建設にあたって、ビーチは馬車業者や政敵で当時市政を牛耳っていたタマニー協会の「ボス」ことウィリアム・M・トウィードの妨害を避けるため、郵便物用の気送管と偽って許可を取得し人目につかないよう夜間にひっそりと工事を進めた。トンネルは市庁舎の真横、ブロードウェイとワーレン・ストリートの交差点からマレー・ストリートまでの1ブロックだけで延長はわずか312フィート(95メートル)しかなかったが、注目を集めるため駅の待合室には豪華な装飾が施されていた。 ビーチが1870年2月28日にトンネルを一般公開すると地下鉄はたちまち市民の注目の的となり、1873年4月にはトンネルをセントラル・パークまで延長する計画が許可された。しかし、同年に発生した1873年恐慌の影響で必要な資金を調達できなくなったこと、また空気圧による制御が難しいという技術的な問題があったことなどから支持を失い、資金を使い果たしたビーチは1874年に運行を停止し、トンネルを封鎖した。その後、ビーチの地下鉄は人々から忘れ去られたが、1912年になりBMTブロードウェイ線シティホール駅の建設現場で偶然発見され、取り壊されて同駅の一部となった。
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