パトリシア・ロバーツ・ハリスとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 政治家 > 海外の政治家 > アメリカ合衆国住宅都市開発長官 > パトリシア・ロバーツ・ハリスの意味・解説 

パトリシア・ロバーツ・ハリス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/08 23:51 UTC 版)

パトリシア・ロバーツ・ハリス
Patricia Roberts Harris
生年月日 (1924-05-31) 1924年5月31日
出生地 アメリカ合衆国
 イリノイ州マツーン
没年月日 (1985-03-23) 1985年3月23日(60歳没)
死没地 アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
出身校 ハワード大学
シカゴ大学
アメリカン大学
ジョージ・ワシントン大学
所属政党 民主党
称号 文学士(ハワード大学
理学修士(アメリカン大学
法務博士(ジョージ・ワシントン大学
配偶者 ウィリアム・ハリス

アメリカ合衆国
第14代保健福祉長官
在任期間 1980年5月4日 - 1981年1月20日
大統領 ジミー・カーター

アメリカ合衆国
第6代住宅都市開発長官
在任期間 1977年1月23日 - 1979年9月10日
大統領 ジミー・カーター
テンプレートを表示

パトリシア・ロバーツ・ハリス(Patricia Roberts Harris, 1924年5月31日 - 1985年3月23日)は、アメリカ合衆国政治家ジミー・カーター政権で住宅都市開発長官保健教育福祉長官保健福祉長官を務めた。またアフリカ系アメリカ人女性としてはアメリカ史上初めて大使に就任した人物であり、1965年のリンドン・ジョンソン政権で駐ルクセンブルク大使を務めた。

生い立ちと初期の経歴

1924年5月31日にイリノイ州マツーンに誕生した。父親のバート・フィッツジェラルド・ロバーツ (Bert Fitzgerald Roberts) は、鉄道の食堂車で給仕を務めていた。

1945年にハワード大学を首席で卒業した。ハワード大学において、友愛会のファイ・ベータ・カッパに加入した。そしてハワード大学卒業後に1949年までシカゴ大学アメリカン大学に研究生として所属した。

1955年にハワード大学で知り合った法学の教員であるウィリアム・ビースリー・ハリス (William Beasley Harris) と結婚した。

初期の職歴

1960年にジョージ・ワシントン大学法科大学院を修了した。ハリスは弁護士として認可を受け、同年に司法省に入省した。ハリスは司法省において刑事部に配属され、上告調査課所属の弁護士として勤務した。ハリスは司法長官ロバート・ケネディと知り合い、職業的友情を築いた。

1961年に司法省を離れ、ハーバード大学で副学部長となった。ハリスはハーバード大学法科大学院で法学の講師を務めた。1963年に正教授に昇任し、1969年にはハーバード大学法科大学院の学部長となった。

政治への関与

駐ルクセンブルク大使への就任宣誓に署名するハリス

1963年にジョン・F・ケネディ大統領から、女性公民権委員会の共同議長に任命された。1964年に民主党全国大会のコロンビア特別区代表に選任され、民主党全国大会に出席した。ハリスは1964年アメリカ合衆国大統領選挙の候補者氏名でリンドン・ジョンソンを支持した。ハリスはジョンソンの選挙運動に参加し、ジョンソンの勝利に貢献した。

1965年にリンドン・ジョンソン政権が誕生すると、ジョンソン大統領はハリスを、駐ルクセンブルク大使として任命した。アメリカ史上、黒人かつ女性の大使は初のケースとなった[1]。ハリスは1967年まで大使を務めた。

1972年にハーバード大学法科大学院の学部長を退き、ワシントンD.C.の法律事務所に加わった。ハリスは1972年に資格審査委員会の委員長に指名され、1973年には民主党全国委員会の全州代表に選任された。

ジミー・カーター政権

1976年アメリカ合衆国大統領選挙ジミー・カーターが勝利すると、カーターは閣僚にハリスを加えると表明した。カーターはハリスの有能性・真摯な献身性を評価した。1977年にカーター政権が発足すると、カーター大統領はハリスを住宅都市開発長官に任命した。ハリスは1979年に保健教育福祉長官に転任した。

1979年10月に教育省組織法が可決すると、保健教育福祉省保健福祉省教育省に分離された。ハリスは保健福祉省の初代長官となり、カーター大統領の任期満了となる1981年まで保健福祉長官を務めた。

晩年

1982年にワシントンD.C.の市長に立候補したが、落選した。同年にジョージ・ワシントン大学法科大学院で正教授に就任した。ハリスはその後、1985年に死去するまで教授職を務めた。

1985年3月23日にジョージ・ワシントン大学病院において、乳癌により死亡した。ハリスの遺体はワシントンD.C.のロッククリーク墓地に埋葬された。

脚注

  1. ^ カーター政権を支える人々『朝日新聞』1977年(昭和52年)1月20日朝刊、13版、7面

外部リンク

外交職
先代
ウィリアム・ロバート・リヴキン
在ルクセンブルクアメリカ合衆国特命全権大使
1965年9月7日 - 1967年9月22日
次代
ジョージ・ジョセフ・フェルドマン
公職
先代
カーラ・アンダーソン・ヒルズ
アメリカ合衆国住宅都市開発長官
1977年1月23日 - 1979年9月10日
次代
モーリス・エドウィン・ランドリュー
先代
ジョセフ・アンソニー・カリファノ
アメリカ合衆国保健教育福祉長官
1979年8月3日 - 1979年11月30日
次代
-
先代
-
アメリカ合衆国保健福祉長官
1980年5月4日 - 1981年1月20日
次代
リチャード・シュルツ・シュワイカー

「パトリシア・ロバーツ・ハリス」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「パトリシア・ロバーツ・ハリス」の関連用語

パトリシア・ロバーツ・ハリスのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



パトリシア・ロバーツ・ハリスのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのパトリシア・ロバーツ・ハリス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2025 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2025 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2025 GRAS Group, Inc.RSS