パックス・ブリタニカの終焉とは? わかりやすく解説

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パックス・ブリタニカの終焉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:38 UTC 版)

近代から現代にかけての世界の一体化」の記事における「パックス・ブリタニカの終焉」の解説

詳細は「パックス・ブリタニカ」および「太陽の沈まない国」を参照 在野歴史家ジャン・モリス(英語版)は、「パックス・ブリタニカ1914年8月終わりを告げた」と述べている。それに対し中西輝政は、「パックス・ブリタニカ」が「イギリスによる『平和』」であるなら正しくそうだったが、しかし、それはすでに「イギリス『による』平和」ではなかったと指摘している。すでにヨーロッパ安定は、列強間の微妙な勢力均衡依存していたからである。 第一次大戦におけるイギリス戦死者数は、公式集計の完了前にナチス・ドイツによるロンドン空襲があり、資料焼失してしまったことにより確実な統計はないものの約90万人とされ、これは第二次大戦での397,000人の倍以上である。イギリス人にとって第一次大戦は、まず大量戦死という悲しみ記憶であり、この戦争のあと、イギリス帝国はもはや以前の姿に戻ることはなくなった。中西輝政は、「ドイツ包囲するよりほかにない」という強迫観念が、イギリスをして壮大な軍事的対峙の網のなかに自ら囚われる結果招いたことが「悲しみ大戦」を運命づけたと評している。 中西また、第一次世界大戦イギリス衰退及ぼした影響として、次の3点指摘している。 大戦心神喪失呼べるほどの幻滅ショックイギリス国民与え、特に若い世代の「帝国支配意思」を大きく減退させたこと。 第一次大戦後によって生まれた新しい世界秩序が、とりわけイギリスにとって適応困難だったこと。具体的には、ロシア革命の影響による労使紛争時代到来大戦後の世界広がる民族自決主義国際連盟による集団安全保障体制世界金融への支配力アメリカ移ったことなど。 本来ならば国力再生専念すべき時期に、戦勝による「見せかけの力の膨張」が「帝国関心」を散り乱し中東地域支配固執してしまったこと。しかし、そこは新しいエネルギー源石油」を産出し、「インドへの道」にもあたっていた。

※この「パックス・ブリタニカの終焉」の解説は、「近代から現代にかけての世界の一体化」の解説の一部です。
「パックス・ブリタニカの終焉」を含む「近代から現代にかけての世界の一体化」の記事については、「近代から現代にかけての世界の一体化」の概要を参照ください。

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