バージニア半島でのスペイン宣教師団
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「バージニア州の歴史」の記事における「バージニア半島でのスペイン宣教師団」の解説
1560年頃スペインの探検隊がバージニアのチェサピーク湾地域低地を訪れ、バージニア半島に住んでいるインディアンに出会った。キスキアックの集落(今日ヨークタウン・アメリカ海軍武器庫のある場所)からポウハタン族酋長の息子であった17歳の少年が探検隊に同行することに同意した。少年は洗礼を受けて、庇護者であるルイス・デ・ヴェラスコに因んでドン・ルイスと改名した。ドン・ルイスはメキシコとスペインのマドリッドで教育を受けた。 10年後の1570年秋、イエズス会が計画したアジャカン伝道所を低地半島部のセントメアリーとよばれることになる場所に設立しようとしたとき、改宗したインディアンのドン・ルイスは案内人兼通訳として助けるためにバージニアに戻った。スペイン船を離れて間もなく、ドン・ルイスはその集団を棄てて故郷に帰り、そこでウェロアンス(酋長)となった。翌年の2月、ドン・ルイスとポウハタン族の集団が戻り8人のイエズス会宣教師を殺し、その衣類や所有物を奪ったうえで、アロンソという名のスペイン人召使いの少年のみ命を救った。この少年は逃亡してポウハタン族とは敵対する部族のもとに逃げ込み、別のスペイン船が物資を持って現れたときに救出された。 1572年の初期にアロンソから事の経緯を聞いたスペイン領フロリダの知事ペドロ・メネンデス・デ・アヴィレスは復讐のためにバージニアに戻った。結局スペイン人は虐殺に責任があると信じられるインディアン数人を捕まえ処刑したが、ドン・ルイスの所在を突き止められなかった。このできごとでスペインがバージニアに植民地を造ろうという試みが終わることになったが、400年以上後、ドン・ルイスとポウハタン連邦の後の酋長オペチャンカナウは同一人物ではないかという推測がなされている。オペチャンカナウという名前はポウハタン族が使うアルゴンキン語で「その心が白い者」を意味している。
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