バンダとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/20 05:29 UTC 版)
テンボと大統領であったバンダは極めて親密な関係にあった。その一例として、バンダはテンボの姪であったセシリア・カザミラ(Cecilia Tamanda Kadzamira)を愛人とし、カザミラにマラウイのファーストレディとしての地位を与えている(なお、カザミラはファーストレディーの地位から"Mama"の名でも知られる)。またテンボ自身も、長い海外暮らしによりチェワ語が十分に喋れなくなっていたバンダの通訳を、1960年前後の独立運動時代から務めていた。 1966年、マラウイ政府は共和制を導入して国名をマラウイ共和国へと変更後、テンボはバンダの指名により財務大臣へと就任した。その後、テンボはイギリス、フランス、アメリカの中央銀行のシステムについて大学院で学んでから、マラウイ準備銀行総裁に就任し、以後13年間務めた。 30年以上に渡り国を支配していたバンダ大統領は、歳を重ねるにつれて独裁の度合いをより深めていたが、テンボはこの期間一度も失脚せずに有力な腹心であり続けたことから、マラウイ会議党内の有力な政治家と見做されていた。しかし、初の多党制選挙となる1994年マラウイ総選挙で、大統領候補として出馬するバンダは副大統領候補にテンボではなくグアンダ・チャクアンバを指名した。なお、この選挙の結果、統一民主戦線候補のバキリ・ムルジが大統領に当選、バンダは敗北して政界から引退した。 選挙翌年の1995年1月、バンダ、テンボ、カザミラの3人は、1983年に4人の政治家を殺害した容疑で起訴された。なお、この裁判は俗に"ムワンザ裁判"と呼ばれている。被害者となった4人の政治家は、州治安部隊の手によって暴行を受け死亡した(申し立てによれば、"自動車事故"による死亡とされる)疑いが若干残るものの、被告ら3人が殺人に直接関与した証拠が無かったためにいずれも無罪となった。その後、バンダが1997年に死亡すると、テンボはマラウイ会議党党首の座をチャクアンバから引き継ごうと試み、高等裁判所の命令を無視してチャクアンバの開催する党大会を妨害しようとした。高等裁判所によりこの行為が侮辱罪として裁定された結果、テンボは国民議会議員を除名されることが決まった。しかしテンボは除名に異議を唱え続けた結果、現在でも国民議会議員として、野党であるマラウイ会議党党首に留まり続けている。
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