ハマース代表
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/18 15:59 UTC 版)
「ハーリド・マシャアル」の記事における「ハマース代表」の解説
マシャアルは元パレスチナ自治政府議長ヤーセル・アラファート批判の急先鋒であり、イスラエルとの休戦協定を結ぶ趣旨の指令書を拒否してきた。マシャアルはアフマド・ヤースィーンとともに、この方針の背後に大きな力が働いていると考えていた。しかし、マシャアルは2004年11月12日にカイロで行われたアラファートの葬式に出席した。 2006年1月29日、ハマースが立法評議会選挙において驚異的な大勝を収めると、マシャアルは「ハマースは武装解除に関して何の計画ももたない」と述べた。彼は「ハマースはパレスチナ内の合意に基づいてパレスチナの武器を統一し、他国の攻撃から自国民を守るため独立国家のような軍を創設する準備ができている」と宣言した。その後、2006年2月13日に、マシャアルは「もしイスラエルが1967年以前の国境線へと戻しパレスチナ人の帰還の権利を認めるならばハマースはイスラエルに対する武装闘争をやめる」と宣言した。2006年7月31日のロイターによるインタヴューの中で、マシャアルはレバノンとパレスチナ問題を切り離そうとする全ての組織に警告した。彼は2008年3月5日に行われたアル・ジャジーラ英語版のインタヴューの中でもこのスタンスを崩しておらず、2005年のカイロ宣言やパレスチナ囚人文書にハマースが調印したことを引用した上で、あらゆる拒否に対し戦うと発言した。2008年3月30日に行われたSky Newsのインタヴューの中で、マシャアルは、ハマースはイスラエルを認定していないと述べ、イスラエルの罪に対する「パレスチナの抵抗運動」であると主張するハマースの自爆テロをサポートした。 元アメリカ合衆国大統領のジミー・カーターは2008年4月21日にマシャアルと会談し、国民投票においてパレスチナの人々の批准を得た場合、ヨルダン川西岸地区とガザ地区におけるハマースによるパレスチナ国の創設を受け入れることで合意した。ハマースはその後、もしイスラエルが1967年の国境線に戻し全てのパレスチナ難民に「帰還の権利」を認めるならば10年の休戦期間を設けると発表した。イスラエルはこの発表に対して何の反応も示さなかった。2008年5月27日、マシャアルはイランの最高指導者であるアリー・ハーメネイーとテヘランで会談し、以下のように述べた。「パレスチナ国はあらゆる圧力に対して抵抗を続ける。いかなる環境下においてもジハードを止めることはない」。ハマースは「この発言は中東カルテットにより促進されてきた「平和への道筋」を意識したものではない、というのもイスラエルは平和への道筋に対する言質をとったわけではないためだ。ハマースはイスラエルの治安維持のためだけに真の主権を持たないパレスチナを設立することを拒否する」。
※この「ハマース代表」の解説は、「ハーリド・マシャアル」の解説の一部です。
「ハマース代表」を含む「ハーリド・マシャアル」の記事については、「ハーリド・マシャアル」の概要を参照ください。
- ハマース代表のページへのリンク