ノリエガによる支配
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1978年、オイル・ショックの影響による経済の不安定化と、運河交渉の終結のためにトリホスは政党活動を公認し、クーデター後アメリカ合衆国へ亡命していたアルヌルフォ・アリアスの帰国を認め、10月には政府主席を辞任した。しかし、トリホスは国家警備隊最高司令官として政治的実権を維持し、1979年にはメキシコの制度的革命党 (PRI) をモデルとして民主革命党 (PRD) を組織し労働者、農民及び学生等を体制に編入することで支持基盤を強化したが、1981年7月に飛行機事故により死亡した。 トリホスの事故死及びメキシコの通貨危機によりパナマの政治・経済は不安定化した。トリホスが政府主席を辞任した1978年10月に大統領に就任したロヨは、1982年7月に病のため辞任し、エスプリエリャが大統領となったが、そのエスプリエリャも1984年2月に辞任し、イリュエカが大統領に就任した。 また、トリホスの死後も国家警備隊が政治的実権を維持していたが、1983年にマヌエル・ノリエガが最高司令官に就任し、国家警備隊を国家防衛軍に改編したころより軍事政権に対する批判が強まった。 1984年5月には、クーデター後初めて大統領選挙が実施され、アルヌルフォ・アリアスを下したバルレッタが大統領に就任した。しかし、バルレッタは、スパダフォラ元保健次官殺害事件等で軍部と対立し、1985年9月に大統領を辞任したため、副大統領だったデルバジェが大統領に就任した。 1987年6月、国家防衛軍参謀総長を務めたエレーラが、1984年の大統領選挙における不正工作、スパダフォラ元保健次官殺害、麻薬密売等に関与したとしてノリエガを告発した。この告発を契機としてノリエガ退陣・民主化運動が発生し、野党政治家、市民団体及び経済団体からなる市民十字軍が組織された。が、政府は、非常事態を宣言し、反政府系マスメディアを閉鎖するなどノリエガ退陣・民主化運動を抑圧した。 1988年2月、アメリカ合衆国フロリダ大陪審は、麻薬密売容疑によりノリエガを起訴した。アメリカ合衆国政府・マスコミも一斉にノリエガ退陣・キャンペーンを行った。3月になり、アメリカ合衆国はノリエガの退陣とパナマの民主化を求め経済制裁等を実施し、パナマに対して圧力を加えた。ノリエガに対するクーデター未遂事件が発生するなど政情不安が続いた。デルバジェ大統領は、ノリエガ司令官の解任を決定したが、逆に大統領が国会によって解任され、マヌエル・ソリス・パルマが大統領代行大臣に就任した。1989年5月に実施された大統領選挙ではエンダラを擁する民主化勢力(民主連合 (ADOC) )が勝利したが、政府はこれを認めず、選挙裁判所により選挙は無効とされ、国内は混乱した。 このような事態はソリス・パルマの任期が終わる8月末になっても解決されず、1989年9月にフランシスコ・ロドリゲスが暫定大統領に就任したが、アメリカ合衆国をはじめ多くの国はこれを承認せず、パナマは国際的に孤立した。
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