ネオナチ・愛国主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:25 UTC 版)
エルベ特攻隊の指揮官ハヨ・ヘルマンは、特攻隊が解散した後も、連合国軍への反撃を止めなかった。ヒトラーの自殺を知った際には、 ヒトラーが死んでも帝国は残る。われわれもまだここにいる。戦い続けるだけだ。 と述べた。1945年5月8日にはドイツが降伏し、4日後にヘルマンは投降した。 ナチスは戦後のドイツで、「狂気」と位置づけられた。ヘルマンは現在のドイツでは、「極右主義者」と見なされている。2008年にヘルマンは三浦耕喜から取材され、神風特攻隊やヒトラーとの関連、「自己犠牲攻撃」によって多くの若者を死なせたことについての考えを尋ねられた。ヘルマンは顔色を変えず、「淡々と答えた」という。 たとえ戦略的な成功ではなくても、われわれの戦意を示し、力の限りを尽くしたことを見せつけた。彼らはその証しだ。最後の作戦になるかもしれなかったのだ。少なくとも、英雄としての最後を飾りたかった。 ヘルマンは特攻作戦を正しいものとして譲らず、ドイツのメディアは彼を「ネオナチ支持者」と見なしている。 戦後ドイツでは、ヒトラーとナチスは「狂信」の塊とされており、特攻隊の生還者ヨアヒム・ヴォルフガング・ベームは「当時の私たちはヒトラーに心酔していた」と述べている。また、ナチスの影響は「愛国心」を語ることを難しくさせてもいる。 三浦耕喜によると、エルベ特攻隊について日本の読者からは多くの反響があり、その中には「あのヒトラーですら特攻には反対していたのか」「ヒトラーですらためらい、たった一回で終わった特攻攻撃を日本はひたすら繰り返していたのか」というような驚きもあった。しかし三浦によると、ヒトラーがエルベ特攻隊に難色を示した理由は、人命尊重のためというよりも「無責任」だった。例えばヒトラーは、第二次世界大戦の開戦を主導しており、全世界で何千万人という犠牲者を出し、自分の兵士にも犠牲を強いた。 スターリングラード攻防戦でも、ヒトラーは「最後の一兵まで戦え!」と述べて撤退を許さず、十万人を死なせた。ドイツが敗色濃厚になると、ヒトラーはドイツ全土に焦土作戦を命令し、敵への屈服よりも「民族の滅亡」を求めた。一方でヒトラーは、大量殺戮を目前に見ることは避ける等、「小心者」な面も見られた。この態度はナチス幹部にも共通している。ゲーリングは、特攻隊への命令文から文章を一部削除することで、隊員たちと直接会う機会を避けた。死ぬまで戦うことを扇動していた宣伝相ゲッベルスは、隊員たちへの訪問予定があったが、直前でキャンセルした。
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