ネオナチ活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/14 02:13 UTC 版)
帰国後、リースはタクシー運転手の職に就いた。1950年代、オットー・エルンスト・レーマー元陸軍少将らが設立したドイツ社会主義帝国党(SRP)の支持者となる。1952年にSPRの活動が禁止された後も、後継政党ドイツ国家民主党(NPD)との関係を保ち続けた。ミヒャエル・キューネン(ドイツ語版)はリースを共同体新戦線(ドイツ語版)(Gesinnungsgemeinschaft der Neuen Front, GdNF)の「友人たる支持者」と数えていた。 1989年、彼は欧州の選挙で自由ドイツ労働者党(ドイツ語版)(Freiheitliche Deutsche Arbeiterpartei, FAP)に関係を持つ国家主義連合(Nationale Sammlung, NS)の候補として出馬した。リースはフランクフルト地方選挙のトップ候補となるが、1989年2月には内務省令の元に国家主義連合は解散した。その後、ドイツ社会主義闘争同盟(ドイツ語版)(Kampfbund Deutscher Sozialisten, KDS)の創設に関与し、名誉会員となる。 リースはドイツ国内のネオナチ組織で、最も人気の高い演説者の一人となり、多くのデモやイベントに参加した。リースは何度かハルベ森林墓地(ドイツ語版)などで有力な極右陣営の論客であるクリスティアン・ヴォルヒ(ドイツ語版)やアクセル・ライツ(ドイツ語版)と共に「英雄の追悼」を行った。2003年11月22日のマリーエンフェルス(ドイツ語版)における武装親衛隊記念碑(ドイツ語版)を求める集会や、2004年10月16日のケルンにおけるデモなどにもリースの姿があった。 彼はこの種のイベントに参加する際、しばしばに鉤十字が入った戦時型の騎士鉄十字章を佩用していたが、2004年4月フランクフルト・アム・マイン地方裁判所はマーリエンフェルスにあるリースのアパートを捜索し、「違憲団体のシンボル」としてこれを押収したのである。この地方裁判所の行動は自由戦友結社(ドイツ語版)(Freie Kameradschaften, FK)など、右派団体からの激しい抗議に晒され、NPD機関紙『ドイツの声(ドイツ語版)』(Deutsche Stimme)にも抗議声明が掲載された。 2008年5月29日、心臓発作に倒れ、運び込まれたフランクフルト・アム・アイ・マインの病院で死去した。 一部の反ネオナチ活動家は、彼が軍歴を詐称していたと主張している。
※この「ネオナチ活動」の解説は、「オットー・リース」の解説の一部です。
「ネオナチ活動」を含む「オットー・リース」の記事については、「オットー・リース」の概要を参照ください。
- ネオナチ活動のページへのリンク