ニコライ2世一家の殺害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 06:36 UTC 版)
「ヤコフ・ユロフスキー」の記事における「ニコライ2世一家の殺害」の解説
詳細は「ロマノフ家の処刑」を参照 1918年7月17日の夜明け前の早い時間にヤコフ・ユロフスキー率いるチェーカーの分隊により、ニコライ2世一家の殺害が実行された。ニコライ2世と一緒にその妻であるアレクサンドラ・フョードロヴナ、彼らの娘のオリガ、タチアナ、マリア、アナスタシア、息子のアレクセイ、従者のエフゲニー・ボトキン、アンナ・デミドヴァ、アレクセイ・トルップ、イヴァン・ハリトーノフが殺害された。ユロフスキーの他にピョートル・エルマコフ(英語版)など革命派の手先として長年働いて軍事委員に取り立てられた5人が銃撃を担当し、その後ろをラトビア人などの兵士7人が囲んでいた。ユロフスキーは銃殺隊が一斉射撃を開始する前に実際には存在しなかった法定の判決文を読み上げた。 「 ニコライ・アレクサンドロヴィチ、貴方の親族がソビエト・ロシアに対する攻撃を継続しているという事実を考慮して、ウラル・ソビエト執行委員会は貴方を処刑する事を決定した。 」 11人全員の殺害が完了した後、遺体が発見されて旧ロシア皇室に対する個人崇拝(当時のロシアの民衆には受難者の遺骸には奇跡的な力が宿っているという考えが根強くあった)が発生するのを未然に防ぐために、ユロフスキーらは一家の遺体の痕跡を徹底的に隠滅しようとした。17日の朝6時か7時頃にエカテリンブルクから北へ16キロ、コプチャキ村まで1.5キロの地点で遺体を載せたトラックは立ち往生して先に進めなくなった。そこで、衣服を剥いで焼いた後に近くの森の中にある廃坑の穴に遺体を放り込み、何発もの手榴弾を穴の中に投げ込んだ。その後に本格的な遺体の隠蔽作業を行うために遺体を掘り返し、19日朝4時半頃にモスクワ街道9キロ地点の森の中へ向かう道中でトラックが泥道にはまってまたもや立ち往生してしまい、道の真ん中に深さ2メートルの穴を掘ってそこに遺体を並べて埋めた。遺体の顔や全身に硫酸をかけて識別不能にした。また、穴を掘る間にアレクセイとマリアの遺体を別の場所でたき火で焼き、その場所に埋めた。
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