ナホトカの開発
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1930年代にはナホトカ湾の畔に、ナホトカ(ナホトカ湾、ナホトカ集落)、セーヴェルヌィ(シェフチェンコ通りの地区)、ウゴリバザ、オボードナヤ峡谷、リィバクのような独立した集落があった。ナホトカの集落は、現在のポールトヴォイ通り(ロシア語版)と中央広場(ロシア語版)の場所にあり、全体で50軒くらいの民家があった。集落の人々は、副収入を得るため農業や漁業に従事した。港湾施設は、1935年に建設された長さ125メートルの埠頭、倉庫、鉄道の引込線を備えていた。波止場から石炭や一般貨物の積み替えが行われていた。岸辺には木造の事務所・食堂・バーニャ・ターミナル駅が建っており、そこから少し離れたところに税関があった。石炭とガソリンで稼働する発電機があった。集落の唯一の通りであるジェラヴァーヤ通りは、貿易港の近代的な施設のある地区から丘に向かって上り坂となり、その後カメンカ川の河口に向かって急な下り坂となり、そこからアメリカーンカ村と遠方のスチャン川への未舗装道路が始まる。1934年からアスターフィエフ岬(ロシア語版)で軍艦と潜水艦の基地が使用されるようになった。 1934年、極東汽船会社により、ナホトカ湾の畔からスチャン川河口まで貿易港(石炭と木材の二つの貨物区画)を建設するという最初の計画が企画されたが、この計画は後に放棄された。1939年4月、全ソ連邦共産党中央委員会書記アンドレイ・ジダーノフは、太平洋艦隊指揮官と沿海地方委員会第1書記を伴い、魚雷艦「ボイコフ」でナホトカに到着した。湾を見てジダーノフは「この場所は素晴らしい港町になるだろう」と総括した。その後同年10月7日に、全ソ連邦共産党中央委員会令とソ連人民委員会議令第1646-399号「ナホトカへのウラジオストク貿易港および漁港の移転について」が受理された。 1936年にシベリア鉄道のウラジオストク-ナホトカ支線が完成し、同年5月1日に鉄道駅のラツィス駅が開業した。1940年7月16日、ナホトカ集落は労働集落に都市区分が変更された。1944年9月9日のロシア共和国最高会議議長団令により、ブジョンノフスク地区が設置され、ナホトカ地区はナホトカ労働集落の中心となった。1947年、ナホトカ港に初の貿易船が停泊した。その船はデンマークの蒸気船「グレタ・メルスク」で、港の建設継続のために資材を運んだ。
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