アメリカーンカ村
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1907年夏、カメンカ川(ロシア語版)沿いに、ウクライナのチェルニゴフ県からの女性移住者たちがアメリカーンカ村(ロシア語版)(アメリカ人女性村の意)を形成し、沿海州オリガ地区スチャン郷の一部となった。この村の形成について、古くからの住人のN. マカロヴァは1961年に次のように回想している。 「蒸気船『オレーグ』で移動した。夜明けに穏やかな湾を見つけた。その場所はほとんど無人だった。人々は、静かに真剣に上陸している。下船し、山のように群がった。新しい場所には杭も庭もなかった」。 1915年にアメリカーンカ村に806人が入植した。このうち432人がロシア人で、19人が朝鮮人男性、278人が違う町からの移住者・風来坊だった。学校が開かれ、住居の一つで教会の礼拝が行われた。1919年春の早朝、集落は英国巡洋艦「ケント」から砲撃を受けた。古くからの住人クセニア・コスティリナは「アメリカーンカ村が船から砲撃された、それは朝の6時ごろに起こった。砲撃音が聞こえ、私たちは目覚めて窓を見た。湾に水色の蒸気船がいた。村で砲弾が破裂し、窓ガラスが揺れ、人々は逃げ回って隠れていた」と回想している。 1919年4月22日、アメリカーンカ村ソビエト(評議会)のメンバー6人が、白衛軍兵士によって海岸に連れて行かれ、射殺された。
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