トランシルヴァニア公時代
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「ステファン・バートリ (ポーランド王)」の記事における「トランシルヴァニア公時代」の解説
ステファン・バートリはバートリ・イシュトヴァーン8世の息子バートリ・イシュトヴァーンとしてソムリヨで生まれた。父はハンガリー王位についたサポヤイ・ヤーノシュの熱心な支持者で、そのライバルであったハプスブルク家のフェルディナント1世の即位に反対しており、1529年にはトランシルヴァニアの総督(ヴォイヴォド)職についたが、息子イシュトヴァーンが生まれた翌年に亡くなった。 息子イシュトヴァーンは領主層の勇敢な指導者、神聖ローマ皇帝の宮廷における巧妙な外交官となった。イシュトヴァーンはサポヤイ・ヤーノシュの息子ヤーノシュ・ジグモンドのハンガリー王位要求を支持していたため、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世に憎まれ、2年間投獄されたこともある。 1570年、ハプスブルク家とサポヤイ家の2つの宮廷は和解し、ヤーノシュ・ジグモンドは新たに創設されたトランシルヴァニア公国の統治者の地位に甘んじた。翌1571年にヤーノシュ・ジグモンドが死ぬと、ベーケーシ・ガーシュパールが後継者とする取り決めを破って、トランシルヴァニアの三身分議会はトランシルヴァニア公にバートリ・イシュトヴァーンを選出した。ベーケーシはハプスブルク宮廷の支持を取り付けて公位を要求したが、イシュトヴァーンは内戦に勝利してベーケーシを国外に追放した。 1572年、当時のキリスト教世界で最も広大であり、最も人口の多い国の一つだったポーランド・リトアニア共和国で、国王ジグムント2世アウグストが後継者を残さずに死去し、王位が空位となった。1573年、先王の妹で唯一の王位継承権者であったアンナは、セイム(共和国議会)に働きかけて、フランス王子アンリ(ヘンリク・ヴァレジ)を新しい国王に選出させた。アンリは自らの王位を正統化するためアンナと結婚する必要があったが、アンリは戴冠式から1年も経たないうちにポーランドから逃亡してフランス王位を継承した(アンリ3世)。 1575年12月12日、およそ1年半の空位期のあと、セイムは教皇代理の説得に従って皇帝マクシミリアン2世を国王に選出した。しかし、その3日後の12月15日に貴族階級(シュラフタ)は反乱を起こし、マクシミリアン選出を主導したセナト(共和国元老院)を脅迫し、「ピャストの王」、つまりポーランド人の王を選ぶよう要求した。激しい議論が交わされた結果、アンナをポーランド王として選出した上で、バートリ・イシュトヴァーンと彼女を結婚させることが決まった。この時、リトアニア代議員はセイムに出席しておらず、国王選出に関わることが出来なかった。バートリ・イシュトヴァーンを候補者として最も支持していたのはプロテスタントとソッツィーニ派(反三位一体派)だった。彼らはハプスブルク家出身の君主がポーランドに対抗宗教改革を持ち込んでくるのを恐れており、宗教的自由が保障されていたトランシルヴァニアの統治者バートリ・イシュトヴァーンを好ましく思っていた。 アンナは1575年12月13日にワルシャワでポーランド王およびリトアニア大公に選ばれ、1576年5月1日、ステファン・バートリ(バートリ・イシュトヴァーン)はアンナと結婚して妻と同様の地位を得た。同年に兄のバートリ・クリシュトーフがトランシルヴァニア公に選ばれたが、1581年に亡くなり、甥のバートリ・ジグモンドが後を継いだ。 この国王選出はルブリン合同の取り決めを無視したものであり、マクシミリアン2世を国王に選出する際にはリトアニアの代議員が出席しないままで事が進められた。このためリトアニアとの交渉が行われ、共和国におけるリトアニアの封建的諸権利が完全に保障されて、ステファンは正式にリトアニア大公、およびルテニアとサモギティアの公爵として認められた。大公として認められた見返りに、ステファンは1579年、共和国において3番目に新しい総合大学となる、イエズス会経営のヴィリニュス・アカデミー(後のヴィリニュス大学)を創設した。
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