トニー・アイオミ主導期(1979年 - 1996年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 06:03 UTC 版)
「ブラック・サバス」の記事における「トニー・アイオミ主導期(1979年 - 1996年)」の解説
1979年、オジーの後任として「レインボー」を脱退したばかりのロニー・ジェイムス・ディオが加入。そのレインボーのサウンドと融合し、新たな様式美スタイルを展開した9thアルバム『ヘヴン&ヘル』を翌年に発表。業界からも高い評価を受ける。 1980年、オリジナル・ドラマーのビル・ワードが脱退。その後、ワードは、短期の復帰を繰り返している。アルバム『悪魔の掟』を発表するも、中途半端にオジー時代の音楽性に回帰した作品で、前作で顕著だったロニーのボーカルの持ち味が活かされておらず、不評だった。 1982年、ロニーがリーダーバンド「ディオ」結成に向けて脱退。後任に元ディープ・パープルのイアン・ギランが加入しアルバム『悪魔の落とし子』をリリースするが、こちらもディープ・パープル再結成参加のため、1984年に脱退。ロン・キールが一時加入するがすぐ解雇。その後、オーディションでデヴィッド・ドナートが加入するが、ドナートもすぐに解雇され、ボーカリスト不在のまま活動は停滞した。 1985年、この年に世界規模の大型チャリティー・コンサート『ライヴエイド』が開催。バンドはオリジナル・メンバーによる、一度きりのラインナップ復活として参加。 オリジナル・メンバー、ギーザー・バトラーが脱退。トニー・アイオミは、これを機にバンドを活動停止し、ソロ・アルバムの制作に着手する。翌年にレーベルからの強い要請により、完成したアルバム『セヴンス・スター』をブラック・サバス名義でリリース。ゲストに招いていたグレン・ヒューズ等が、そのままツアーのバンド・メンバーとなった。グレンはそのままバンドとしてのブラック・サバスの正式メンバーになり活動する予定だったが、アルコール、ドラッグによる体調不安や負傷でツアー直前に解雇される。その後、サポートにレイ・ギラン(後にバッドランズ)を加入させる。しかしアルバム『エターナル・アイドル』のレコーディング途中で解雇されてしまう。 1987年以降はロニー時代の様式美スタイル回帰を狙い、トニー・マーティンやレインボー人脈のコージー・パウエル(ドラム)を起用し、『エターナル・アイドル』『ヘッドレス・クロス』『TYR』と、三作連続で様式美路線のアルバムを発表し、好評を得る。そして1992年、コージー等と入れ替わりに、その本家たるロニー・ジェイムス・ディオが復帰する(ギーザーも復帰)も、モダン・ヘヴィネス的な要素を取り入れ、ファンの期待する様式美スタイルを捨てた『ディヒューマナイザー』は著しく不評で売り上げが低迷し、ロニーは再び脱退。その後、ライブ一回のみではあるが当時ジューダス・プリーストを脱退したばかりのロブ・ハルフォードが起用された。 1993年、トニー・マーティンが復帰。ドラマーは元レインボーのボビー・ロンディネリが加入。前作でのロニーの復帰が大きな失敗を招いたことが悪影響を及ぼし、ロニー復帰前の様式美路線に戻した『クロス・パーパシス』は商業的に失敗に終わり、ギーザーが再脱退、ニール・マーレイ、コージーが復帰。しかし復帰作も楽曲にラップを取り入れるなど、ファンの望まない方向に音楽性を変えてしまった『フォービドゥン』で、著しく人気は低迷してしまう。また、コージーがツアー中に脱退。ボビーをサポートとして復帰させツアーをまっとうした。そしてオジー・オズボーンを含んだオリジナル・ラインナップの復活が企図され、オジー、ギーザー、ビルの3人が復帰して、オリジナル・メンバーが再び出揃った。
※この「トニー・アイオミ主導期(1979年 - 1996年)」の解説は、「ブラック・サバス」の解説の一部です。
「トニー・アイオミ主導期(1979年 - 1996年)」を含む「ブラック・サバス」の記事については、「ブラック・サバス」の概要を参照ください。
- トニー・アイオミ主導期のページへのリンク