トゥールーズのスペイン人社会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 09:35 UTC 版)
「トゥールーズ」の記事における「トゥールーズのスペイン人社会」の解説
20,000人から25,000人近い人口のスペイン人は市内で最大の外国人コミュニティを形成している。これは1930年代に共和国派スペイン人の主要な亡命先となったためである。2006年にはトゥールーズでスペイン第二共和政75周年の記念行事が開催され、当時の市長ジャン=リュック・ムダンは若者や新たなトゥールーズ市民へ向けてこの亡命の重要性を説く以下の如くの演説を行った。「(トゥールーズがスペイン共和国派の亡命中心地となったことについての)この感慨は、今日この場において、歴史における悲劇の日々へ、すなわちスペイン人同士でありながら共和国派とフランコ派が互いに殺し合い、10万の共和国派とその家族をトゥールーズへ駆り立てた戦争の悲劇へと連なります。(中略)そのトゥールーズには、様々な亡命政党が新たにつくり出した政治的布置の記憶が残ります。共産主義者が集った労働組合センター (Bourse du Travail)、無政府主義者の多かったベルフォール通り4番地とウィルソン広場の噴水周辺、ゲリラ兵が集ったカピトル広場のカフェ・ド・ラ・ペ、社会主義者の中心であったトール通り69番地の今日のシネマテーク、そしてこうした諸々の者が集まったエトワル通りのアテネオ、さらにそれほど政治的ではなかった人達が拠り所にしたカサ・デ・エスパーニャにその記憶が留められているのです。」 トゥールーズではスペインの影響が強く、モンペリエとともに国内有数のスペイン人社会を持つ。1986年、8つあったスペイン人協会を統合して発足したカーサ・デ・エスパーニャは、スペイン人の社会・文化・教育のより所である。トゥールーズは、より広範囲の他国のヒスパニック社会を引きつけている(バスク、アンドラ 、バレンシア、カタルーニャ、アンダルシア、アルゼンチン、キューバなど)。『バラ色の都市』の一部は非常にラテンの雰囲気を持っている。バーやタパス、フラメンコ・クラブはもちろん、サルサ、タンゴ、チャチャチャのクラブが数多くある。バルセロナやマドリードの夜のにぎわいを思い起こさせる。スペイン語は、トゥールーズで2番目によく話される言語である。
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