トゥール・ポワティエ戦前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 02:14 UTC 版)
「カール・マルテル」の記事における「トゥール・ポワティエ戦前」の解説
その後は外征を開始し、王国北辺のフリースラント(フリジア)やウェストファリアのサクソン人への遠征を行い、ラガンフリド指揮によるネウストリアの反乱も抑えた。その間、721年には国王キルペリク2世が亡くなり、テウデリク4世が継いだが、マルテルの権力基盤は強化されていった。 しかし、国内の混乱に乗じて、南からウマイヤ朝の侵攻が相次いでいた。フランク軍は721年にはネウストリア西南部のトゥールーズでウマイヤ軍を破っていたが、現在のフランス南部はウマイヤ朝の支配下にあった。 732年にウマイヤ朝が再び侵攻し、イベリア知事のアブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキーの軍勢がボルドーを略奪してロワール川流域の重要都市トゥールに迫ると、マルテルはこれを迎撃した。両軍はポワティエ(現在のフランス中西部、ヴィエンヌ県の県都)の近郊で激突し、アル・ガーフィキーが戦死したウマイヤ軍は退却した(トゥール・ポワティエ間の戦い) 。この結果、イスラム勢力による西ヨーロッパへの侵攻は食い止められ、後のレコンキスタへの基盤が作られた。歴史家のエドワード・ギボンは著書『ローマ帝国衰亡史』の中でマルテルを中世最高のプリンスと称えた。
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