トゥール・ポワティエ戦後
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「カール・マルテル」の記事における「トゥール・ポワティエ戦後」の解説
トゥール・ポワティエ間の戦いでの勝利後もマルテルは積極的な外征を行った。ブルゴーニュにはブルグント王国を復活させ、ウマイヤ領の地中海沿岸のプロヴァンスやセプティマニア(現在のラングドック=ルシヨン地域圏)へ侵攻したが、イスラム勢力の抵抗も根強く、両者の攻防は一進一退であった。 737年に国王テウデリク4世が後継者指名をしないまま亡くなると、王位の空白期になった。既に王国の実権は完全にマルテルの手中にあった。聖ウィリブロルドのエヒタナハ修道院は、マルテルが諸侯を抑えるための権威を与えた。 738年にはボニファティウスをライン川東岸でのカトリック信仰を統括するマインツ大司教に任命した。739年にはローマ教皇グレゴリウス3世から、ローマを脅かす北イタリアのランゴバルド王国討伐を依頼されたが、マルテルはこれを断り、ランゴバルドとの同盟を維持した。ただし、フランク王国に対する教皇からの依頼は、マルテルの死後に果たされた。 741年、現在のフランス北東部、クワルジー・スー・ロワーズ(エーヌ県)で死去した。遺体はパリ近郊のサン=ドニ修道院(現在のサン=ドニ大聖堂)へ葬られた。
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