エヒタナハとは? わかりやすく解説

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エヒタナハ【Echternach】

読み方:えひたなは

エヒテルナハ


エヒタナハ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/16 03:41 UTC 版)

エヒタナハ
フランス語ドイツ語:Echternach
ルクセンブルク語: Iechternach
市章
位置

オレンジ色部分がエヒタナハ
座標 : 北緯49度48分00秒 東経6度25分00秒 / 北緯49.80000度 東経6.41667度 / 49.80000; 6.41667
行政
ルクセンブルク
 広域行政区 グレーヴェンマハ
 郡(県) エヒタナハ
 市 エヒタナハ
市長 Théo Thiry
地理
面積  
  市域 20.49 km2 (7.91 mi2)
標高 154-393 m
人口
人口 (2008現在)
  市域 4 855人
    人口密度   237人/km2
公式ウェブサイト : http://www.echternach.lu/

エヒタナハEchternachルクセンブルク語: Iechternach)は、ルクセンブルク東部のコミューンで、市資格を持つ。ドイツ国境と接するルクセンブルク最古の町である。エヒテルナハエヒテルナッハとも[1]

歴史

舞踊付きの礼拝行進

先史時代の居住の跡が見られる。ローマ帝政期の邸宅や集落を囲む防備施設、墓地等の存在が証明されている[2]ノーサンブリア王国出身の修道士で、のちに初代ユトレヒト司教となり、フリジア人のキリスト教化に尽力した、聖ウィリボード698年に創建したエヒタナハ修道院の壁周辺に、定住地としてエヒタナハは発展した。ウィリボードは亡くなる739年まで修道院を導いた。その後この地への巡礼が行われるようになった[3]。今日、毎年ペンテコステの3日目には、彼にちなむ舞踊付きの礼拝行進が行われている。

かつて町の中を流れていたシュール川(en:Sauer)は今ルクセンブルク=ドイツ国境となっているが、ローマ帝国末期とメロヴィング朝期には、これは全て辺境領ではなかった。60年/ 70年頃に広壮な邸宅(Palastvilla; Herrenhaus)が建設された。この遺構は1975年/ 1976年の発掘調査によって確認されている。邸宅は4世紀に至るまで拡張を続け、最盛期には124x72m、地階約70室であった[2]

697年/698年フランク王ダゴベルト2世の娘でトリーアのエーレン(Trier-Oeren)の修道院長であったイルミナ(Irmina)は、自ら部分的に所有する屋敷と(villa Epternacus)と教会施設をウィリボードに贈った。706年、ウィリボードは屋敷の残りの部分をイルミナの娘プレクトルード(Plektrud)とピピン3世(小ピピン)から寄贈され、修道院施設を建設した[4]

「修道院は849年から856年まで伯アダルハルドゥスの所有となり、修道士を聖堂参事会員に代えたが、864年には伯ラギナールが、873年にはカール大王の子カルルマンが所有した。当院に修道士が再び住むようになるのはそれから1世紀後の973年である」[5]。 1017年にはウィリボード時代の建物が焼け落ちたが、左右対称の塔を備えたロマネスク様式のバシリカは、今もウィリボードの墓のある納骨堂を中に備えている。修道院の図書館と写字室(Echternacher Skriptorium;8世紀と11世紀に最盛期)は優れた美術品を所有制作していた[6]。 エヒタナハの町は修道院の外壁周囲で形作られた。町が都市特権を得たのは1236年であった。1737年、修道院は端正なバロック様式で再建された。1797年、修道士たちは追放され、修道院の有名な図書館とその所蔵物は競売にかけられた。図書館が所有していた初期の写本の一部は、パリフランス国立図書館にある。修道院内には磁器工房がつくられていた。町は、鉄道ができ観光客がやってくるまで衰退していた。1815年ルクセンブルクに帰属した[7]

史跡

エヒタナハには2つの教会がある。大きな方は、修道院付属のバシリカで、町の歴史地区にある18世紀の修道院(現在は学校が入っている)に囲まれている。小さな方は、教区教会である聖ペテロ聖パウロ教会である。

第二次世界大戦でひどく傷んだエヒテナハは、完全に修復された。絵のように美しい町は、今も中世の壁と塔で囲まれている。1975年から、5月と6月に国際音楽祭が開かれている。

脚注

  1. ^ エヒテルナハ(エヒテルナハ)とは - コトバンク
  2. ^ a b Lexikon des Mittelalters. Bd. III. München und Zürich: Artemis 1986 (ISBN 3-7608-8903-4), Sp. 1542.
  3. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. III. München und Zürich: Artemis 1986 (ISBN 3-7608-8903-4), Sp. 1543-1544.
  4. ^ 今野国男『修道院』(「世界史研究叢書」⑦)近藤出版社 1971年、116頁。- Lexikon des Mittelalters. Bd. III. München und Zürich: Artemis 1986 (ISBN 3-7608-8903-4), Sp. 1542-1543.
  5. ^ 今野国男『修道院』(世界史研究双書⑦)近藤出版社 1971年、168-169頁。
  6. ^ Hans Holländer: Kunst des frühen Mittelalters. Stuttgart: Chr. Belser Verlag 1969 (Belser Stilgeschichte Band V), Abb. 6 (S. 18) und S. 140, Abb. 120 (S. 153) .
  7. ^ Gerhard Köbler: Historisches Lexikon der deutschen Länder. 6. Aufl. München: C.H.Beck 1988 = Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1999, S. 143.

外部リンク

座標: 北緯49度48分 東経6度25分 / 北緯49.800度 東経6.417度 / 49.800; 6.417



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