テルテル家の統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 07:29 UTC 版)
「第二次ブルガリア帝国」の記事における「テルテル家の統治」の解説
ゲオルギ1世テルテル即位後のブルガリアには半独立状態の封建領主が乱立していた。 ブラニチェヴォ - ダルマンとクデリンの兄弟 ヴィディン - シシュマン バルカン山脈山麓部とスレドナ・ゴラ山脈 - スミレツ、ラドスラフ、ヴォイシルの3兄弟 クラン (ブルガリア)(英語版)(クルン) - エルティミル 1285年にジョチ・ウルスがブルガリアで大規模な破壊を行うとゲオルギ1世はノガイに従属を誓い、息子のテオドル・スヴェトスラフ (英語版)を人質に差し出し、娘をノガイの子チャカに嫁がせた。1292年に政争に敗れたゲオルギ1世は東ローマ帝国に亡命し、ノガイはスレドナ・ゴラのスミレツをブルガリア皇帝に擁立して自分の傀儡とした。スミレツの治世にブルガリアの領土の一部がセルビアに併合されてヴィディンが攻撃を受けるが、積極的な対応は行われなかった。 1299年にジョチ・ウルスの内戦によってノガイが戦死した後、ノガイの子チャカがテオドル・スヴェトスラフに伴われてブルガリアに亡命する。タルノヴォの貴族たちに賄賂を贈ったチャカはブルガリア皇帝に選出されるが、1300年にテオドルはチャカを殺害し、彼の首をトクタ・ハンの元に届けた。その対価として、ジョチ・ウルスからブルガリアにベッサラビア地方が返還された。 モンゴルの支配から脱したテオドル・スヴェトスラフは敵対する貴族と高位聖職者への牽制として、以前から他国に内通している疑いがかけられていたタルノヴォの総主教ヨアキム3世に極刑を下した。テオドルは即位から3年の間に東ローマ帝国からの内政干渉を絶ち、また貴族の反抗を抑えて中央集権化に成功する。テオドルは長年ブルガリアに干渉を行ってきた東ローマに対して攻勢に転じ、東ローマによって占領された北トラキア、ザゴラ、黒海沿岸部の都市がブルガリアの元に戻った。1308年に東ローマとの間に結ばれた和約で、ブルガリアが奪還した地域の支配が認められる。セルビアとの関係は反東ローマ政策によって改善され、1321年に東ローマで帝位を巡る内戦が起きた際には、ブルガリアは内戦の当事者の一方であるアンドロニコス3世に加担して領土の拡大を図った。 1321年にテオドル・スヴェトスラフが没すると、テオドルの子のゲオルギ2世テルテルが帝位を継ぐ。ゲオルギ2世は内戦で分裂した東ローマに進攻し、フィリッポポリスなどの都市を奪回した。ゲオルギ2世の軍はアドリアノープルにまで南下するが、行軍の途上でゲオルギ2世は急死する。フィリッポポリスは東ローマに再占領され、指導者を失ったブルガリアは危機に陥る。
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