チヌイラフ要塞と日本海軍無線電信所への攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:50 UTC 版)
「尼港事件」の記事における「チヌイラフ要塞と日本海軍無線電信所への攻撃」の解説
ニコラエフスクの町の入り口は、町から10キロあまり離れた丘陵地帯にあり、町を一望できるチヌイラフ要塞によって守られていて、その近在には、日本海軍の無線電信所があった。 すでに白軍にはチヌイラフ要塞にまわす兵力がなくなり、日本軍が守備を引き受けていた。 1月28日、パルチザンの斥候8名がチヌイラフ要塞に姿を現し、戦いは始まった。翌29日、小競り合いがあり、チヌイラフ要塞とニコラエフスクの間の電線がパルチザンによって切断された。2月4日になって、ブラゴエシチェンスクにいた第14師団長白水淡中将からニコラエフスク守備隊へ、「パルチザン側から日本軍を攻撃してこないかぎり、自ら進んで攻撃をすることはやめよ」という新方針の無線連絡があった。要塞守備隊の人数が少なかったところへ、この指示が来て、翌5日には要塞を明け渡した。2月7日、要塞を占領したパルチザンは、海軍無線電信所を砲撃してきて、電信室が破壊された。やむなく陸海の守備隊はニコラエフスクへ引き上げることに決したが、その際の戦闘で、陸軍兵2名が死亡し、榊原機関大尉は下腹部貫通銃創の重傷を負い(後日死亡)、陸海各1名が軽傷を負った。 これにより、ニコラエフスクと外界との連絡網はすべて絶たれた。 最後の無線連絡で、事態を知った陸軍当局は、ニコラエフスクへの増援を検討したが、各地で不穏な情勢が続いていたため、ウラジオストク、ハバロフスクともに兵員の余力が無く、可能になり次第、本土から増援部隊を送ることとした。2月13日、北海道の第7師団より増援部隊を編成する手続きをとった。一方、海軍は、北樺太(北サハリン)のアレクサンドロフスクからも不穏な情報が入っていたことから、三笠と見島(砕氷船)を視察に出したが、ニコラエフスクの方は堅氷に閉ざされて、艦船の近接、上陸は不可能だった。結局、陸軍の増援は延期された。
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