仙台牛タン焼き
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仙台牛タン焼き(せんだいぎゅうタンやき)は、宮城県仙台に始まった牛タン料理。戦後、庶民の外食産業から発展したものであり、仙台のご当地グルメとして知られている。やや厚切りにした牛タン焼きと、麦飯、テールスープ、浅漬け、味噌南蛮(唐辛子の味噌漬け)をともに提供する「牛タン定食」が定番である[1]。
注釈
- ^ 米軍の残り物説について仙台牛たん振興会は全面否定しているが、佐野はむしろ公式見解として認めており、自信のある元祖とイメージダウンを嫌う新規参入業者との間で見解の相違が生じている。
- ^ a b 麦飯を含んだ「牛タン定食」が成立した1950年(昭和25年)は、朝鮮戦争の勃発(穀類が兵站として需要急増)もあり、闇米(「米#日本」参照)の価格が2倍になったとも言われ、米価が高騰していた(「米価の変遷」等参照)。それは、同年12月7日の国会における池田勇人蔵相(当時)の発言が「貧乏人は麦を食え」と伝えられると、高い米価に苦しんでいた国民の反発を買う舌禍事件になるほどだった。1951年(昭和26年)以降の「実質米価」は、2010年(平成22年)を基準にして比べると概ね2倍以上だったとされる。しかし「実質米価」は、1980年(昭和55年)頃を境に大きく低下し、現在のようになったという。
- ^ a b 結核と並んで「二大国民病」と呼ばれた脚気も関係する(「日本の脚気史」参照)。大正期より、都市部を中心に白米を主食とする食生活(副食が不充分)が広まると、脚気を患って死亡する者が増加した。同疾患の原因は、麦飯には含まれるビタミンB1(オリザニン)が、白米食(副食が不充分)により欠乏するためと判明し、帝国陸軍などは白米食を止め、同栄養素が含まれる麦飯食に戻した。しかし、アリナミンとその類似品が社会に浸透する1950年代後半まで、脚気による死亡者は1000人/年を超えていた。なお日本国民は、食事から得られるエネルギーにおいて穀類(主食)が占める比率が7割以上を占めていた1970年以前と比べ、現在のそれは4割程度まで低下しており、脚気防止のためのビタミンB1摂取は主食からではなく副食からが主流となっている。そのため、(偏食をしなければ)わざわざ主食を麦飯にする必要性は、医学的にも栄養学的にも無い。因みに、栄養学的見地から様々な議論が続いていた白米は、1976年(昭和51年)より学校給食に導入開始された(「日本の学校給食」参照)。
- ^ a b 配達される氷を用いた「冷蔵箱」は当時広く存在していたが、その庫内の冷却能力は「10 - 15℃」がせいぜいだった。1950年施行のJAS法によって、冷蔵の定義は10℃以下と規定された。「冷蔵箱」に替わって全国に普及した「電気冷蔵庫」の庫内は「2 - 6℃」であり、JAS法を満たす性能を持った。
- ^ 当時の仙台では、調理用のエネルギーとして亜炭(仙台亜炭)・木炭・薪等を使用していた。
- ^ 当時は、外食券が必要な外食券食堂、あるいは、必要ない雑炊食堂でないと法的に外食を提供出来なかったが、両者がそのような食堂であったかどうかは不明。
- ^ 肉質等級が最高の「5」に格付けされないと呼称が許されない日本で最も基準が高い超高級ブランド牛肉[5]。
- ^ しゃぶしゃぶや生食メニューなどでは、仙台牛や仙台黒毛和牛を用いる例も見られる。
- ^ ニワトリに限らずブタやウシの正肉や臓物も材料にした。
- ^ 仙台市道青葉1664号・国分町2号線 (延長545.4m、最小幅員4.64m、最大幅員11.35m)
- ^ かき徳の現在の住所は、仙台市青葉区一番町4丁目9-1。
出典
- ^ a b “御当地人気料理特選 牛タン焼き”. 農林水産省. 2019年4月12日閲覧。
- ^ “米の小売価格の変遷”. 戦後昭和史. 2019年4月13日閲覧。
- ^ 森島賢 (2014年11月4日). “米価は歴史的な低水準”. 正義派の農政論. 農業協同組合新聞. 2019年4月13日閲覧。
- ^ “調理と地域性”. 農林水産省. 2019年4月13日閲覧。
- ^ a b “仙台牛”. 銘柄牛肉検索システム. 日本食肉消費総合センター. 2019年4月13日閲覧。
- ^ a b “ときわ亭のこだわり | 0秒レモンサワー 仙台ホルモン焼肉酒場”. 0秒レモンサワー 仙台ホルモン焼肉酒場 - (2020年5月21日). 2023年2月10日閲覧。
- ^ 菊地 (2013), p. 84.
- ^ 「仙台牛たん振興会」調べ。10年毎の概数をプロットしたが、2000年以降は5年毎。
- ^ a b c d e f g h i j k l 逸見英夫『仙台はじめて物語』創童舎、1995年8月15日、34-43頁。
- ^ a b 『仙台市史』通史編8 現代1、16-19頁。
- ^ “仙台市土地区画整理事業年表” (PDF). 仙台市. 2019年4月13日閲覧。
- ^ “いらっしゃいイナトラ”. 虎屋横丁・稲荷小路親交会. 2017年4月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年4月13日閲覧。
- ^ a b 朝日新聞仙台支局 編『宮城風土記 (2)』宝文堂、1985年4月1日、6-7頁。
- ^ a b c 松浦達也 (2017年6月27日). “【肉道場入門!】仙台牛タン誕生の物語 米兵が持ち込んだ牛肉文化を「名物」に昇華させた商売人”. zakzak. 夕刊フジ. 2019年4月13日閲覧。
- ^ 朝日新聞仙台支局 編『宮城風土記 (2)』宝文堂、1985年4月1日、66頁。
- ^ 『仙台市史』通史編8 現代1、137-139頁。
- ^ “喜助とは”. 味の牛たん喜助. 2019年4月13日閲覧。
- ^ a b c d e “日米通商交渉の歴史(概要)” (PDF). 外務省 (2012年3月). 2019年4月13日閲覧。
- ^ “仙台牛銘柄推進協議会とは”. 仙台牛銘柄推進協議会. 2019年4月13日閲覧。
- ^ “こばやしのあゆみ”. 株式会社こばやし. 2019年4月13日閲覧。
- ^ a b 出願番号:特開平07-227200
- ^ 出願番号:特開平09-154537
- ^ “道路の愛称”. 仙台市. 2019年4月13日閲覧。
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