セント・エリザベス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 03:12 UTC 版)
「エズラ・パウンド」の記事における「セント・エリザベス」の解説
戦後、パウンドは、アメリカに送還され、反逆罪による告発を受けた。彼は、精神障害を理由にして裁判を受けるのに適さないと判断されて、ワシントンD.C. のセント・エリザベス病院 (St. Elizabeths Hospital) に収容させられた。彼は、1946年から1958年までの12年間を、この病院で過ごした。 パウンドは、気まぐれで派手好きな人物であり、それは、控えめに言っても、精神医学用語の「観念及び信念の誇大化」に至る態のものだった。パウンドに対する精神障害の診断は、彼を裁判無しに効果的に勾留するための国家による迫害の一例だったと広く信じられている。これと対照的に、著名な精神科医E.フラー・トーリー(E. Fuller Torrey)は、このムッソリーニの伝道者がセント・エリザベス病院の監督医ウィンフレッド・オーヴァーホルサー(Winfred Overholser)により厚遇されていたと確信していた。オーヴァーホルサーは、パウンドの詩を賞賛していて、パウンドが病院内の個室で暮らすことを許した。そこでパウンドは、3冊の著作を書き、有名な文学者の訪問を受け、妻や何人かの愛人と夫婦として過ごすことを許されていた(トーリーは、オーヴァーホルサーとパウンドとの関係を、1981年の『今日の心理学』と、その後の『反逆のルーツ』とで暴露している)。 セント・エリザベスにおいて、パウンドは、詩人その他の崇拝者に囲まれ、『キャントウズ』の創作、儒教古典の翻訳を続けた。彼を最も頻繁に訪れる人々の中には、白人至上主義団体「全国州権党」(National States Rights Party) の当時の議長が含まれており、彼とパウンドとが、アメリカ南部における人種差別維持への公的支援を結集する最善の戦術・戦略を議論していたと推測する者がいる。パウンドは、彼の友人である多くの詩人・芸術家たち(特にロバート・フロスト)が協調した活動を行った後に、遂に釈放された。パウンドは、治癒不能な精神障害に陥ったままだが、周囲に対しては危害を加えないと判断されたのだった。
※この「セント・エリザベス」の解説は、「エズラ・パウンド」の解説の一部です。
「セント・エリザベス」を含む「エズラ・パウンド」の記事については、「エズラ・パウンド」の概要を参照ください。
- セント・エリザベスのページへのリンク