セカンドアルバムから解散へ
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「ザ・ストーン・ローゼズ」の記事における「セカンドアルバムから解散へ」の解説
泥沼化していた裁判に加え、イアンとジョンが父親になり、バンドに近しい人物が相次いで亡くなるなど周辺環境に大きな変化が生じたこともあり、ローゼズは長きに渡る沈黙に入る。1stアルバムからは5年半、最後のライヴからは4年半が経過し、英国の音楽シーンにおけるブームもマッドチェスターからブリットポップへと移り変わっていた。そんな中で、1994年12月に2ndアルバム『セカンド・カミング』が発表される。ジョン主導で制作され、レッド・ツェッペリンからの影響が色濃く伺われる本作は、全英4位、全米チャート47位を記録し、イギリスではプラチナムに認定された。また、アルバム発売にあたり、ホームレス救済雑誌『ビッグイシュー』に独占インタヴューが掲載された。シングル「ラヴ・スプレッズ」も2位を記録し一定のセールスを上げる一方で、音楽性が急激に変わった本作への評価は芳しくなく、一部のメディアからは酷評された。 翌1995年の3月にレニが突然バンドを脱退する。脱退理由の正式な説明はなされないまま、後任にロビー・マディックスが加入。4月にはノルウェーのオスロでのライヴを皮切りにヨーロッパとアメリカを回るツアーが開始された。しかし、その途中の6月にジョンがサンフランシスコでマウンテンバイクを運転中に鎖骨を骨折。直後に予定されていた日本ツアーなどが延期になり、グラストンベリー・フェスティバルへの出演がキャンセルされた。12月には1989年以来となる全英ツアーが行われ、チケットは即完売した。 1996年4月1日、ジョンが脱退。彼が残した声明で、バンドを去ることは「過去数年間にしだいに生じていった人間関係と音楽性の溝から避けられない結果だった」と説明されている。後任にはエイジアやシンプリー・レッドでセッション・ギタリストを務めたアジズ・イブラヒムが迎えられ、夏に予定される複数のロック・フェスティバルに向けて準備が始められた。 8月25日には、レディング・フェスティバルの大トリに出演。しかし、終始音を外したイアンのボーカルや女性バックコーラス兼ダンサー陣を加えたステージは観客に受け入れられず、ブーイングや物が飛び交う事態になった。加えてプレスも一斉にローゼズのパフォーマンスを批判した。これを受け、イアンとマニは10月に解散を発表、ストーン・ローゼズの歴史に終止符を打った。
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