セイロンの独立
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「ドン・スティーヴン・セーナーナーヤカ」の記事における「セイロンの独立」の解説
1942年12月、セーナーナーヤカは内務大臣バロン・ジャヤティルカの退任により、国会議長および閣僚会議副議長に就任した。1943年5月26日、イギリス政府は「1943年のセイロン憲法改正に伴うホワイトホール宣言」を行い、これによりセイロンの大臣は、彼らの独立運動を止めようと本国の植民地省に要請する総督を迂回して、議題を提出できるようになった。セーナーナーヤカは国会の完全独立に関する決議に反対して国会議員を辞職し、代わりに自治領として独立することを、イギリスに提案した。 1945年にセーナーナーヤケは植民地大臣オリヴァー・スタンリーに会うためにロンドンへ向かった。彼の渡航中にロンドンでは総選挙で労働党が勝利し、ジョージ・ホールが大臣に就任していたため、ロンドンではホールと面会した。1946年、彼は完全な独立を推し進めるためにに内閣を辞職した。そして、同じ年に自治領を支持する右派政党3つを合併させ、統一国民党(UNP)を結成した。 1947年、インドが独立し、植民地大臣にアーサー・クリーチ・ジョーンズが任命されたことに伴い、セーナーナーヤカはソウルベリー委員会が推奨する新しい憲法を使用して彼の訴訟を推進するための新しい窓口を設置した。そして、その後の交渉で英国政府は憲法改正と自治に関するセーナーナーヤカの提案を受け入れた。セーナーナーヤカはセイロンの独立に関する憲法改正案を国会に提出し、国会は3票の反対を除く賛成多数で議決した。 独立に伴う議会選挙は、1947年8月23日から9月20日までで開催された。これまでずっと無投票当選だったセーナーナーヤカもミリガマ選挙区で対立選挙となった。彼の率いたUNPも、エドモンド・サマラコディ率いるインド・セイロン・ビルマ ボルシェビキ・レーニン党に対して16,000票以上の票差をつけて勝利した。UNPは、総選挙で過半数を下回ったが、 全セイロン・タミル会議と連立して内閣を形成することができた。 同年9月24日、セーナーナーヤカはセイロン自治領総督ヘンリー・モンク=メイソン・ムーアからセイロンの初代首相に就任することを要請された。同年11月11日、セーナーナーヤカとヘンリー総督はセイロン・イギリス間の防衛協定、公的サービス協定を含む独立協定に署名し、セイロン独立法は12月に可決された。こうして1948年2月4日、国会の開会に際してセイロンの独立が宣言された。
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