スティーブントン時代
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「ジェイン・オースティン」の記事における「スティーブントン時代」の解説
1775年12月16日に、ハンプシャーのスティーブントンの牧師館で生れた。牧師である父のジョージ・オースティン(1731年 - 1805年)は9歳で孤児となったが、伯父のフランシス・オースティンに助けられ、オックスフォード大学に入った。妻のカサンドラ(1739年 - 1827年)との間にはジェインの他に6人の兄弟と姉がおり、長兄のジェームズは父と同じくオックスフォードに入り詩などを発表していて、ジェインに影響を与えた。次兄のジョージについてはあまり伝えられておらず(言語に障害があったらしい)、三兄のエドワードは裕福な家の養子に入り、四兄のヘンリーもオックスフォードに入っている。五兄のフランシスと弟のチャールズは、共に海軍に進み提督にまで昇進した。姉のカサンドラとは生涯を通じて非常に親密な関係を保ち続けている。ジェインを描いたものと公式に認められている肖像画は、ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーに収められたカサンドラの手による彩色スケッチのみである。しかしながら、等身大の彩色画をジェインの一族が所蔵しており、これは10代の頃のジェインを描いたものとも言われている[要出典]。 1783年にカサンドラとともに知り合いのもとへ預けられ、短期間ではあるがオックスフォードおよびサウサンプトンで教育を受けている。1785年から翌年にかけてはバークシャーのレディングにあるレディング修道院女子寄宿学校で学んだ。当時一般の少女よりも充実した教育を受け、この間に多くの文学作品に触れ、英訳されたゲーテの『若きウェルテルの悩み』も読んだという。1789年には早くも小説の原型を書き始めるようになったが、これは友人や家族に読み聞かせて喜ぶためであった。小説は3冊のノートにまとめられているが、2冊目にある「愛と友情」などには、すでに特色があらわれている。 1795年、書簡体形式の「エリナとメアリアン」を、翌年には「第一印象」を書いた。父は「第一印象」の出版を打診する手紙を出版社に送ったが断られた。1797年11月、「エリナとメアリアン」を下敷きとして「分別と多感」を書き始める。さらに、のち『ノーサンガー・アビー』となる「スーザン」にも取りかかり、1803年にはクロスドー社に売った。しかし生前は出版されず、死後『説得』とともに出版された。
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