スチュアートおよびローガンとの共同事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 03:22 UTC 版)
「エイブラハム・リンカーンの前半生」の記事における「スチュアートおよびローガンとの共同事業」の解説
リンカーンはスチュアートと共同で法律事務所を始めたときから、スチュアートが主に政治やアメリカ合衆国下院議員選挙に関わっていたので、事務所の顧客の大半を扱っていた。この事業には常に扱える以上の顧客があった。料金のほとんどは5ドルであり、通常2.5ドルから10ドルの間だった。リンカーンは他の多くの弁護士に比べて、彼らがリンカーン同様独学であろうと経験の多い弁護士に付いて勉強した者であろうと、能力や効率で互角だということを理解した。1839年11月にスチュアートが下院議員に選ばれ、連邦議会に行くようになると、リンカーンは一人で事業を切り盛りした。リンカーンはスチュアートと同様、法律での経歴は政治的な大望への触媒と考えていた。 1840年までにリンカーンは法律実務と議員としての給与で年間1,000ドルを稼ぐようになっていた。しかしスチュアートが連邦議会で再選を果たすと、もはや全ての仕事を引き受けていくことに満足せず、1841年4月にスティーブン・T・ローガンと新しい共同事業を始めた。ローガンはリンカーンより9歳年上で、サンガモン郡では指導的な弁護士であり、イリノイ州に移ってくるまではケンタッキー州の州検察官だった。ローガンはリンカーンを事業のために必要としていた相棒と見なし、自分が陪審員裁判に弱いのに対しリンカーンの効率の良さを認めていた。共同事務所の顧客は多かったが、リンカーンはスチュアートと分け合っていた利益を二分するのではなく、3分の1だけを受け取った。 リンカーンのローガンとの関わりかたはその経験を学ぶことだった。リンカーンはローガンから法律に関する洗練された点や訴訟の適切で詳細な調査および訴訟準備の重要性を吸収した。ローガンが書いた答弁は正確でポイントを突いており、リンカーンはそれをモデルとして使った。しかし、リンカーンがさらに上達したのは独学の方が多かった。歴史家のデイビッド・ドナルドは、ローガンがリンカーンに「法律には常識や単純な公平さよりも多くのものがある」と教え、リンカーンの学習は「手続きと判例」に向くようになった。この期間リンカーンは法律書を勉強したのではなく、「毎晩最高裁判所図書館で過ごして担当している訴訟に当てはまる判例を研究」した。リンカーンは、「私は問題を根っこから掘り出し、心の火のまえに持ち上げ乾燥させることを愛する」と語った。リンカーンが書いた弁論趣意書で、特にイリノイ州最高裁判所訴訟で重要なものは、イギリスのコモン・ローにまで遡って注目された判例を用い、詳細に準備されることが多かった。最高裁判所に出廷する機会が多くなり、その政歴に役立つようになると、その技能が上がっていることが明白になった。1861年にリンカーンがワシントンに行くときまでに、最高裁判所の法廷に300回以上立った。リンカーンの伝記作者スティーブン・B・オーツは、「リンカーンが細部まで行き届いた準備と説得力ある議論に熟達し法律家の中の法律家という評判を取ったのはここでだった」と記した。
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